暑い日が続きますね☀️☀️☀️
先週の宮崎の地震に続いて、台風5号では岩手で川の氾濫もありました。お見舞い申し上げます。
そして今また千葉県沖に台風7号が迫っています。最近はいつも日本列島のどこかで災害が起きているような気がします。日本列島どこにいても、ここは安全ということはないようです。

そんな中、私は夏の甲子園を横目にこのブログを書いています。青森山田がんばれー野球




和田家文書の中から、面白いと思ったものを紹介しています。


平將門の娘・楓姫に託された神像。その中に秘められていた「天皇記・國記」。
今日はその「天皇記・國記」をとりあげます。

残念ながら和田家文書のなかには「天皇記・國記」そのものを書写したものは無いようです。ただその足跡は描かれています。

今回は2つご紹介します。




645年、中大兄皇子が蘇我氏討伐の時、
蘇我蝦夷は甘橿丘の自らの館に火をつけ自刃した。
この時、船史惠尺(ふねのえさか)が館に踏み入り、天皇記・國記を持ち出し皇子に引き渡したと伝えられるが、本当はこれらを持ち出すことは出来なかった。

後に中大兄皇子が蘇我蝦夷の墓を掘りあばき、石棺の室をくまなく盛土を取り除いて探したが、天皇記・國記は見つからなかった。蘇我氏は万一に備えはるか坂東の降神山の天池神なる岩洞に移したのだった。

(北鑑 第37巻 天皇記・國記之事より抜粋)




天皇記は、これより後世の古事記・日本書紀と内容が違う。天皇氏はこれらを所持する蘇我氏に「返却するように」と何度も要請したが「蘇我の特権の証である」として応じなかった。
中大兄皇子は船史惠尺に命じて蘇我邸を焼き襲うも、天皇記・國記は見つけられなかった。
蘇我氏はこの時死んだが、これらは武蔵の和銅山のあらはばき神社に隠されていたのだった。それが平將門の代に社殿再建の際に見つかったのだった。

平將門はこれを奉り、東国を平定し神皇として立君した。朝廷は將門を討伐して天皇記を奪取しようとしたが見つからず、北の中尊を祀る極楽寺、さらに北の浄法寺までも捜索したが、未だ所在知れずという。

(和田家文書コレクション 東北陸羽史談二 陸羽国之奇談より抜粋)




奈良県明日香村の石舞台古墳。



※画像お借りしました。


奈良の石舞台って蘇我蝦夷のお墓なんですね。

本当はこの石室の周りに土が盛られていて、それを綺麗さっぱりどけちゃったんだ。‥ふーん。

お墓をあばいて丸裸にする、中大兄皇子の執念のほどが伺えますね驚き



そして楓姫が託された神像を最後に納めたのは津軽とのこと(前回の投稿を参照)。果たして津軽に天皇記・國記は残されているのか⁉️



‥て、あったら楽しいね💕





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