(Blog Action Day に参加中ということで、書きます!!
だらだらと、長いよ。)
Poverty:貧困 について、好きなことをかく、ということなんですが、大学時代の研究にかかわる、私にとってすごく大事なテーマです。それだから、書きたいことは一杯ある!
ここで大学の講義の受け売りのようなことを書いてもしょうがないので、私のザンビアの思い出話などを思いつくままにかきますね。
2001年の10月から6ヶ月、当時21歳の私はザンビアにいました。
大学を休学していった、1年間のボランティアプログラムで、派遣先がザンビアだったのです。
ちなみに、ザンビアってどこ?というと、アフリカ大陸の中心からちょっと南、内陸国で、ジンバブエの北、コンゴの南、マラウィやモザンビークの西にあたります。
(ますます分かりにくい?)
アフリカの中でも、とくに激しい内戦の歴史や、有名な観光地(でもビクトリアの滝は有名だよね)もないので、結構大きいのに地味な国の一つです。
そんな国で何をしていたのか?というと、参加したNGOが経営するすごい田舎の小学校で算数を教えていました。
本当は、併設する職業訓練学校で、一般教養のクラスみたいなことをやるつもりで派遣されたのですが、資金難で学校は開始せず、その間、隣の小学校に派遣になったイングランド人の子と一緒に、小学校のアシスタントをしたのです。
もともと、別に教員資格のない私が、何をしているのか??ということですが、算数の塾のお姉さんといったイメージ。
教科書にそって、小学校6年、7年生に、筆算の掛け算・割り算、パーセンテージを教えていました。
朝授業を1回ずつ2回持って、午後は算数の苦手なこの補修クラス、夜は7年生の宿題クラスを見ていました。
この学校には、孤児だったり、シングルペアレントだったりで、公立校にいけない都会の子と、同じように貧しくって学校に行けない、地元の子が通っていました。
だから、公立校を途中で抜けちゃってから、戻ってきた子とかが多く、留年してるわけで小学校6年といっても、15歳くらいが中心。
そして、今まで適当にやってきたのか、九九もできず・・・。
そんな中、九九をつかって、さっさと採点する私は、「計算ロボットのよう」と感心されたくらい。
(日本人なら、当たり前のレベルなんだけど・・・)
という、仕事をしながら、ザンビアのド田舎で6ヶ月生活をしていました。
(↑ザンビアで暮らしていた家。乾季の時。雨季になると一面草で緑に。)
どんな生活だったかというと、住んでいたところには、水道も電気もないの。
飲める井戸が学校の敷地内にあって、家からそこまでは500mほど。
水汲みにいくだけで1日の大半が終わってしまうので、水汲みさんを雇っていた。
日曜日は彼がお休みとのことで、自分たちで水を頭に乗っけて、運ぶ。
上手にできず、家につく頃には、バケツの水が半分になっているんだよ。で、自分はびしょぬれ。
(↑学校にあった井戸。これはそのまま飲める水がでる、深めのいいタイプ。近隣の村の井戸は、もっと単純で、バケツで汲むタイプだったりする。)
電気もないから、キャンドルでくらす。
だけど、虫があつまってくるんだよね。
料理は、炭で・・・。
朝、1杯のコーヒーをいれるだけに30分くらいかかる。
もちろんトイレは水洗なわけがなく、地面に穴がある・・・という程度。
シャワーは、井戸から汲んできた水を、コンクリートブロックを積み上げて、囲いにしてある場所で浴びるのみ。
水浴び?ってかんじだね。
そんな田舎だから、スーパーはもちろん存在せず、土を盛って台にしたマーケットがあるくらい。トマトやオクラ、菜の花の葉っぱ、煮干みたいな魚なんかを売っている。
首都のルサカへ月1回買出しへ出かけるのだけど、その道は、でこぼこなので、南北に走るアスファルトの主要道路に出るまで40kmなのに、3時間くらいかかる。
で、合計4時間近くかかって首都へいき、スーパーで買出し、郵便局へいき、インターネットカフェを使い、レストランで食事する。
ルサカに泊まるこのときだけ、暖かいシャワーが使えて、うれしかったなぁ。
という、面白い生活でした。
でも私のこの田舎生活は、貧困とは関係なかった。
関係あったのは、田舎道で会う、おばさんが「お金をください」ということや、洪水で家がなくなった人が学校の教室に住んでいたことや、クラスの身体障害をもった女の子が卵を売りに来て、「売れ残ったら父に殴られる」とかいうことだったような気がする。
でも、田舎の貧困は、なんとなくステキな感じがすることもある。
ザンビアに行ってすぐ、近所を案内してくれた子が、その子の土壁・わらぶきの家のまえで、CDコンポと自転車とともに、家族写真を撮ってくれといった。
多分、それらをもっていることはステータスシンボルなんだろうけど、はじめはそれが不思議で、おかしかった。
スイカがすきだと学校でいったら、どこからともなく、おじさんがスイカを5つも売りにきた。
外国人は、お金持ちで、これくらい買ってくれるかな?とおもったんだろう。
でも、都会でみた、貧困は、きびしかった。
盲目の人が、物乞いをする。
電車の線路沿いで夜を過ごしているらしい。
スーパーやレストランからもらってきたのか、残飯が入っているらしい、汚い水が滴るビニール袋をぶら下げて歩いていく、ぼろぼろの服をきた5歳くらいの男の子。
学校に来ていた子の中に、9歳くらいの女の子がいたのだけど、その子は学校に来る前までは、母からビール代替わりに売られていたらしい。妙に大人な表情をしている子だった。
マラリアは日常的に起きて、貧乏な人はマラリアで死んだりする。
ザンビアでかわいがっていた男の子が、数年前マラリアでなくなったと聞いた。
エイズはすごく大きな問題なのに、相乗りバスに一緒になった男の人は、「信じてない」って言った。
彼は、HIVが目に見えないから、存在しないと思っているらしかった。
学校の子供たちは、兄弟や、父・母なんかの誰かをなくしている子が大半だった。
そんな話をしても、子供たちは、よく、'Anyway, it happened.'って話を締めくくった。
なんだか、切ないなーと思った。
貧しいのと、不幸せなのはイコールじゃない。
だからといって、貧しいから、すばらしいとかでもない。
私の見たザンビアでは、人は、貧しいけど、貧しいなりに、どこの国の人とも同じように、一生懸命その生活を送っていた。
子供も、どこの国の子供とも同じように、かわいくもあり、憎らしくもあり・・・。
でも、じゃ、これからもそれでいいんじゃない?というわけでもない。
最近ますます思うのだけど、子供が病気になったり、死んだりする、そのとき、母の気持ちはどうだろう?とおもう。
胸が張り裂けそうで、代わってやりたいと思いながら、どうにもできないとき。
カイ君がNICUに入って、どうなるか分からないと思ったときの気持ち。
カイ君は先進国の設備の整った病院で見てもらった。それでも、人生で一番つらかった。今でも思い出すとひどくつらい。
それが、貧しい国で、貧しい家庭で、お金さえあれば助かるだろう病気にかかる子供を、抱きながら、その子を見取る母の気持ち。
うちの祖母は、末娘を3歳でなくした。
簡単な病気だったのだけど、戦後のものもお金もない状態で、お医者さんに見てもらったものの、どうしようもなかったらしい。
病気になって、ビスケットが欲しいっておねだりしたその子に、ビスケットを買ってあげられなかったのがすごくつらかったらしい。
その子の命日にお墓参りをするたびに、ビスケットを持っていき、「ごめんね」と手を合わせる祖母。
そんな思いをしている母親が今も世界中にたくさんいる。
いつか、そんな母親が少しでも減るような世界になるといい。
