小学校の学級担任をしていた数十年前、6年生の国語教科書に「田中正造」の伝記が載っていました。6年生の教科書下巻の最後の教材、つまり、小学生として読む最後の物語だったと思います。

その伝記は、正確には覚えていませんが、

「正造の頭陀袋の中には、聖書と数枚の鼻紙だけが残っていました。」

という文章で終わっていたと思います。

 

ずだぶくろ(ヅダ‥)【頭陀袋】
1 頭陀1をする僧が、経巻、僧具、布施物などを入れて首にかける袋。
2 死人を葬る時、その首にかける袋。すみ袋。
3 だぶだぶして、何でもはいるような袋。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


田中正造について、現在も小学校国語教科書や小中学校の社会科教科書に載っているとすれば、今の学生も「田中正造」の名前と事跡の概要は知っていると思いますし、覚えていてほしい人物です。

そして、大人だけでなく学生にも、本日、辞職願を提出するとニュース速報で報じられた東京都知事と田中正造の生きざまを比べ、自分が何を感じたか、何を思ったかを覚えていてほしい、と、強く願っています。

 

いきざま【生き様】
生き方(のありさま)。
▽「死にざま」に類推して(「死にざま」に伴った悪い語感もなしに)一九六五年ごろから広まった語。
[岩波 国語辞典 第七版 新版]

 

念のため、ウィキペディアを一部参照して、田中正造について確認しておきます。

(文責はブログ筆者)

 

田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の政治家。日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。現・栃木県佐野市小中町出身。

1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。
12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし、即日釈放された。

田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。

1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。

自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける。その途上の8月2日、現・佐野市下羽田町の支援者宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。下野新聞によれば、死因は胃ガンなど。

財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。

 

正造の天皇直訴の当時、盛岡中学(現・県立盛岡第一高校)の学生であった石川啄木は、天皇直訴の報を聞いて、

「夕川に 葦は枯れたり 血にまどふ 民の叫びのなど悲しきや」

と、その思いを三十一文字に託した。