塾だよりを書きながら、30数年前の教職6年目頃を思い出していました。

 

当時、担任する子供たちに作文力を付けさせたくて、指導法をあれこれと試していたのです。

あの頃、『読書感想文全国コンクール優秀作品集』(正確な名称は失念)が市販されており、これを数年分、行きつけの書店の棚にあるだけ買い込んで、研究用教材としました。

 

今、アマゾンで調べたら、たぶんこの本かな?と思う本がありました。

 

 

 

さて、当時、ひと夏かけて私が取り組んだことは

 

『優秀作品集』に掲載されている読書感想文すべてを読んで、良い文章とは何かを探る。

 

ということでした。

 

 

その結果、すべての優秀作品に、驚くべき共通点を発見したのです。(ベテランの教師なら、とっくに気づいていたことかもしれません)

それは・・・

 

① あらすじは、まったく書かれていない。

② 自分(書いた人)の生活体験と結び付けて考えを書いている。

③ どの文章も、主語と述語が明確である。

④ ひとつの文章が長くなく、すっきりと短くまとまっている。

 

・・・ということでした。

 

これを2学期の国語の授業で、4年生の子供たちに説明しました。

当時、教え子たちは、「あらすじを書かなくても大丈夫なの?」と尋ねました。

私は、4年生にもわかるように

「読書感想文コンクールの審査員は、課題図書の内容を知っているから、感想文に、あらすじを書く必要はないのだよ」

と答えました。

 

居住地の小中学校では、課題図書を読んで読書感想文を書くことが 夏休みの宿題になっていたため、このような説明をしたのですが、私は「賞取り合戦」は大っ嫌いでした。

(教え子に賞を取らせるのが好きな教員は多いですが・・・)

だから、次のように付け加えました。

 

読書感想文の目的は、作文を書くことではなく、子供たちが、読書を通して、自分の生活や考え方を見直し、よりよく生きるヒントをつかむことにあるのだよ。

 

本当の話、このように考えていました。

また、「⻑いあらすじの後に、ほんの少しだけの感想」で終わっている感想文は、最悪の感想文である、とも教えました。

 

当時、私自身が愛読していた吉川英治の『宮本武蔵』を例にして、「悪い感想文」と「良い感想文」を具体的に指導しました。

 

(悪い読書感想文の例)
宮本武蔵は、子どもの頃からワンパクで、沢庵和尚に一晩中、木に吊るされたこともありました。剣の道に進んだ武蔵は、様々な剣豪たちと勝負をしましたが、一度も負けたことがありませんでした。佐々木小次郎と、巌流島で戦いました。武蔵は、わざと遅刻をして、小次郎を焦じらし、木刀で小次郎を倒しました。私は、武蔵はすごいと思いました。

 

(良い読書感想文の例)
私は、バスケットボール部に入っています。練習は厳しいです。夏休み中も毎日、蒸し風呂のように暑い体育館の中で、練習が続きました。先生に動きが悪いと注意されて泣きたくなったり、練習試合でレギュラーになれずに腹が立ったりしました。宮本武蔵が剣の道を究めたように、私も、大好きなバスケットボールを究めてみたいと思っています。

 

 

当時、私が『優秀作品集』の全作品の共通点を調べるために使った手法は、「定量分析」という手法でした。すなわち・・・

 

文字数・段落数・あらすじと感想の出現回数と組合せ・主語と述語の出現回数・ひとつの文章の長さ(文字数)という要素を決めて統計を取り、比較検討する。

 

というものでした。

これは、教職3年目くらいから、「教育実践の工学的アプローチ」について自主研究をしていたことの、1つの成果と言ってよいことだと思っていました。

 

今、改めてこのような教育指導の方法を振り返ってみると、文章作法や作文技術の指導と、本を読んで感動できる心の育成とは、まったく次元の異なることだ、と、思います。

ただし、学校現場の教師が、「よい作文を書かせたい」と純粋に願うことはよいことで、あれこれ研究して生徒の作文力を高める手立てを取ることは間違ってはいない、と、思います。

同時に、技術の指導と心の育成は切り離して考えるべきだ、と、考えています。

 

(追記)

ブログを書いていて、ハッとしました。

次期学習指導要領改訂によって、小・中・高校にプログラミング学習が導入されるらしいのですが、プログラミング学習が、プログラミング技法の指導に終始しては意味がないな、と、思いました。