佐藤一斎 著  久須本文雄 全訳注 『言志四録』 解題より
「三 著者 (二) 学風」


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(二) 学風
 一斎が陽明学に傾斜したのは、けだし彼の少壮の頃からである。彼が師事した大儒中井竹山は朱子の学を奉じていたが、陽明の学を深く信じていたので、その影響によるものといえる。なお、一斎が竹山の塾を辞する時に、竹山は「困而後寤(覚める、悟る)、仆(倒れる)而復興」の句を書して贈ったが、その後句は王陽明の語であると一斎に言い伝えたという。竹山の感化が、彼を陽明の学に志向せしめるに至った動機ともいえる。松平楽翁候(定信、一七五八 ─ 一八二九)は、一斎が王学を奉ずることを聞いて、陽明の肖像一幅を贈ったといわれている。
 一斎の著である『大学一家私言』(一巻)は、彼が二十五歳頃、陽明学の視点からなされたもので、彼の『周易』・『中庸』・『論語』・『孟子』・『小学』・『近思録』などの欄外書は、すべて陽明の説をもって述べたもので、王陽明の『伝習録』の欄外書は論ずるまでもなく、なお『言志四録』には陽明の思想が散見している。彼が特に日本陽明学派の祖中江藤樹(一六〇八 ─ 一六四八)を尊崇していることや、彼の門から多くの陽明学者を出していることや、なお欄外書などからしても、一斎が陽明の学を奉じた王学者であることは首肯
しゅこうされる。
(つづく)
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 素養がないということは困ったものである。
 朱子学も陽明学も、その言葉は知っているが、その内容については「まったく知らない」というのが、現在の素人学者である。
 それだけならまだいいが、上記の文章に何度も登場する「欄外書」という言葉も初耳だった。
「らんがいしょ」なのか「らんがいがき」なのか、それさえもわからない、ぼんくら頭である。

 「学風」という言葉を見て、なんだかとても懐かしい気持ちになった。

    がくふう【学風】
    学問を研究するうえでの好尚、態度、傾向。また、学校の気風。
    (国語大辞典 小学館1988)

 私が24歳・教職3年目(1981)に、学級の子どもたち全員で話し合って、内容とデザインを決めた、子どもたち手作りの学級目標を作った。(下の写真)

 残念ながら、大切に保管してあった模造紙の学級目標は 3.11 で失った。
 教職3年目の頃、私は学級担任として、学校に「校風」があるように、学級にも、子どもたちをはぐくむ「級風」(学級の風土)というものが、たしかに存在すると感じ、「級風」の形成過程を確かめたくて、学級目標づくりの経緯を教育論文にまとめた。この教育論文がきっかけとなり、県教委の取材を受けて「私の学級経営」という表題がついて20分のテレビ番組になった。
(教育論文のURLはこちら)

【追記】
 教育論文のURLにリンクを貼ったところ、数時間の間に30数人の方がアクセスしてくださいました。拙い論文を読んでくださった方々にお礼申し上げます。


つづく