佐藤一斎 著  久須本文雄 全訳注 『言志四録』 解題

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二 内容

 一斎の語録は、『言志録』・『言志後
こう録』・『言志晩ばん録』・『言志耋てつ録』の四種類に分かれていて、これを『言志四録』と称しているが、これらについて概説しておく。

 言志録  二百四十六条。その開巻第一条に「文化癸酉みずのととり五月念六日録」とある。すなわち、光格帝(第十一代将軍家斉の時代)の文化十年(一八一三)、一斎四十二歳の五月二十六日に起稿され、以後十有余年間に随時書かれたもので、文政七年に刊行され、「文政癸未みずのとひつじ嘉平月」、すなわち、文政六年(一八二三)十二月の日付による福知山の城主源綱條つなえだ候の跋文ばつぶん(あと書きの文)がついている。

 
言志後録  二百五十五条。その開巻第一条に「文政戊子つちのえね重陽録」とあるから、仁孝帝(将軍家斉の時代)の文政十一年(一八二八)、一斎五十七歳の九月九日に起稿され、以後およそ十年間に書かれたもので、次の「晩録」と共に嘉永三年に刊行されている。末尾に志す者の心得を述べた「入学説」が附載されている。

 
言志晩録  二百九十二条。外に別存四十四条がある。その巻頭に「録起二天保戊戌つちのえいぬ猛陬もうすう月一、至二嘉永己酉つちのととり仲春月一」とある。すなわち、仁孝帝(第十二代将軍家慶いえよしの時代)の天保九年(一八三八)、、一斎六十七歳の正月(猛陬)に起稿され、孝明帝の嘉永二年(一八四九)、七十八歳の二月(仲春)までのおよそ十二年間に書かれたものである。別存四十四条は、林述斎(江戸後期の儒者。一斎より四歳年長。一七六八~一八四一)の逸事・行状および一斎自身の履歴を記したものである。

(ブログ筆者注)  本書では将軍の名前「家慶」に「いみよし」とルビが振られているが、正しくは「いえよし」だと思われるので、上記の当該文字には「いえよし」とルビを振った。

 
言志耋録  三百四十条。その巻頭に「余今年齢躋のぼるも二八袠ちつ一(一袠は十年の意。八十歳。袟・秩に同じ)、耳目未レ至二太衰一、何其幸也。一息之存、学匪レ可レ廃。単記曰二耋てつ録一。嘉永辛亥かのとい夏五月」とある。すなわち、孝明帝(将軍家慶の時代)の嘉永四年(一八五一)、一斎八十歳の五月に起稿し、嘉永六年に刊行されているので、その間わずか二年足らずして脱稿されている。末尾に「嘉永癸丑みずのとうし中秋後一日」、すなわち、嘉永六年(一八五三)陰暦八月十六日の日付による河田興の跋文ばつぶんがついている。巻頭の文によると、彼一斎は八十歳の高齢なるも、聡明にして筆力衰えず、学究の旺盛なることが知られる。因ちなみに『耋録』の耋は耊と同じく「老いる」の意で、老人または七十歳(一説に八十歳)をいう。
(次回ブログにつづく)
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 漢文の素養が無きに等しい身の上に加えて、旧暦の暦の呼称も頭に整理されていない素人には、逐一、辞書を引いて読んでいくことが、苦痛とは言わないが、手間のかかる作業である。老眼鏡様様である。
 それでも、全訳注者の久須本文雄博士の文章は、素人に優しい。ありがたいことである。
 『言志耋録』が刊行されたのは、私が生まれる104年前である。「大昔」とは言えない。「少し前」と言ってよい。
 「彼一斎は八十歳の高齢なるも、聡明にして筆力衰えず、学究の旺盛」というのが凄い、と、感動を覚えた。
 『言志録』から始まり、『言志耋録』までの「四緑」を、ずっと書き続けた佐藤一斎とは、どのような人だったのだろうか。何を書いたのだろうか。期待は高まるばかりである。

 昨夜、録画したテレビ番組を見ていたら、ちょうど佐藤一斎の有名な肖像画が大写しにされた。家族が「佐藤一斎って、片岡鶴太郎さんに似ているね」と言って笑った。片岡鶴太郎さんも素晴らしい俳優であり画家であるが、「くわーっ、佐藤一斎を知らない人は、そんなことを言うのか・・・」と、がっかりして見せたが、内心、たしかに風貌は似ているな、と思い、苦笑いした。


つづく