植野明磧先生の名著『良寛さん』の「勘当された周蔵」は、全編が逸話で構成され、明磧先生の解題は特にありません。「じっくりと読み味わってください」という明磧先生のメッセージかもしれません。
--ここから
良寛さんが、島崎村の木村元右衛門(もとえもん)の邸内に移ってからのことでした。
当時、この家の総領息子に周蔵という青年がありましたが、元右衛門の意に逆らうことが重なったために、勘当(かんどう)を受けて家を追い出されていました。それで、これまでに身内の人々や隣家の人たちが、かわるがわる仲裁にはいりましたが、元右衛門は頑(がん)として応じないままになっていたのです。
そこで、見るに見かねた近所の人たちが、良寛さんが木村家の一隅に住まわれることになったのを幸いに、良寛さんにも同席してもらって、再度元右衛門を説得することになりました。それで、良寛さんもこの人たちと共に元右衛門に会って、なんとか勘当を許してやってくれるように頼むことにしました。
頑固に拒否する元右衛門、そのそばで黙ってうなだれている妻、ともに周蔵の親です。強気を見せる元右衛門の口と心、その表面と内心は、決して同じであるはずがありません。何度も願ってくれる隣家の人たちの善意、特にこの日の良寛様の到来は、この両親にとって、まことに得難い仏陀(ぶっだ)の救いともいうべきものでした。それで、これまで誰の取りなしにも耳を籍(か)そうとしなかった元右衛門の心も、だんだん解きほぐされていったのです。やがて元右衛門が静かに言いました。
「みなさん、お忙しいのに何度もご苦労ですのう。とくに今日(きょう)は、良寛さままでお出(い)でくださって、まことにありがたいことですじゃ。もうこのうえは、皆さんにお任せすることにしますわい。ところで良寛さま、あの周蔵めに、きびしい手紙を書いてもらいたいのですがのう」
「よしよし、それはありがたい!」
誰よりも喜んだ良寛さんは、妻の用意してきた巻紙を拡(ひろ)げて、すぐに筆をとりました。
此度(このたび)貴様かんどうの事に付、あたりのものども、
いろいろわびいたし候(そうら)へども、なかなか承知無之
(これなく)候。私も参りかかり候故(ゆえ)、ともどもにわび
いたし候へば、かんどう許すことに相成り候。早速御帰
(おかえり)候而(て)可燃(しかるべく)候。さて御帰被遊
(あそばされ)候て後は、ふつがうの事なきよふに御たし
なみ可被成(なさるべく)候。
良寛さんは、宛名(あてな)を書き入れるまえに、元右衛門に読んで聞かせました。すると妻が、おどおどしながら言いました。
「良寛さま、あれは朝寝坊じゃで、これからは早く起きるように、それから、父親に逆らわぬように、それから、仕事もよくするように、それから、もう一ぺんとこんなことがないように、そんなことも書き添えてくださりませ」
「そうじゃったのう、はいはい」
再び筆を持った良寛さんは、にこにこしながら、次のように書き加えました。
第一あさおき、親の心にそむかぬ事、し事も手の及
(およぶ)だけつとめて可被遊候。其(その)他の事も
御心づけ可被遊候。かさねていかような事でき候
とも、わびごとはかなはず候間、さよふにおぼしめし
可被成候。 以上。
四月十四日 良寛
周 蔵 殿
この手紙が、すぐに木村家の下働きの男によって隣村の親戚の家で謹慎している周蔵の許(もと)に届けられました。そして、翌日、半年振りに周蔵がわが家の土を踏むことになったのです。
良寛さんは、その晩は心がはずんで眠れませんでした。あくる朝、いつもより早く起きた良寛さんは、何度も門前をうろうろして周蔵の帰りを待ちました。やがて、向こうの方からとぼとぼ歩いてくる周蔵の姿を見つけた良寛さんは、急いで玄関の戸を閉めて、内側から堅く押さえました。おどけて、周蔵の気分をやわらげてやろうとしたのでしょう。
ところが、まもなく玄関先まで来た周蔵が、大戸を開けようとしましたがあきません。首をかしげた周蔵は、仕方なく裏へ回って、勝手口から家の中へ入りました。暫(しばら)く彼の顔を見なかった母親は、さすがにうれしさを隠しきれないで、すぐに用意しておいた食膳に向かわせました。
気まずい父子、重々しい雰囲気のなかで、家族みんなが食膳に向かいました。その時、突然下働きの女が笑いながら言いました。
「アラ良寛さま あんなところで!」
みんな一斉に、女の指さす玄関の方を見ると、良寛さんはしきりに足をふん張って、一生懸命に戸を押さえているのです。みんな、どっと笑いこけました。
驚いた良寛さんが、振り向いてみんな方を見ると、すでに周蔵は家族と共に坐(すわ)っています。裏をかかれた良寛さんは、決まり悪そうに戻ってきて、周蔵のそばに坐りました。みんながまた、どっと笑いました。良寛さんも大きな声で笑いました。
--ここまで
元右衛門の妻が、息子宛の手紙の文面を書き足して欲しいとお願いした場面、その内容を読むと、実にほほえましく、いつの時代も子を思う親心というものは変わらないのだなぁ、と、しみじみと思いました。
また、この逸話を読んでわかったことがいくつかありました。
まず、良寛さんは生活の場を移動している、ということです。山の上の五合庵から乙子神社の境内、そして、木村家の邸内へと、請われるままに、また、老齢となった良寛和尚を村々の人々が労(いたわ)って、というのが理由かと思われます。
そして、土地の人たちは、良寛和尚を「良寛さま」と尊敬しながら大切にもてなし、また、畏敬するというよりは親愛の情を頂いて良寛和尚と接していたことがわかります。
良寛和尚は「市井に生きる人々とは別格の僧侶」ではなく、「市井に生きる人々と共にある僧侶」であったことがわかります。良寛和尚は「職業僧」を嫌っていたと思われます。こういう良寛和尚であったからこそ、明磧先生は良寛和尚をして「愚かなる聖(ひじり)」と呼んだのだと思います。(前回の逸話「何でも食う」を参照してください)
今回の「勘当された周蔵」のお話は、その「愚かなる聖」の面目躍如(めんぼくやくじょ)の逸話ですね。
私も人生の土壇場が幾度もありましたが、良寛和尚と知己があったらなぁ・・・と思いながら、ため息をついているところです。
名著『良寛さん』の逸話も残り少なくなってまいりました。少し休んで、大切に読んで行きたいと考えています。
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良寛さんが、島崎村の木村元右衛門(もとえもん)の邸内に移ってからのことでした。
当時、この家の総領息子に周蔵という青年がありましたが、元右衛門の意に逆らうことが重なったために、勘当(かんどう)を受けて家を追い出されていました。それで、これまでに身内の人々や隣家の人たちが、かわるがわる仲裁にはいりましたが、元右衛門は頑(がん)として応じないままになっていたのです。
そこで、見るに見かねた近所の人たちが、良寛さんが木村家の一隅に住まわれることになったのを幸いに、良寛さんにも同席してもらって、再度元右衛門を説得することになりました。それで、良寛さんもこの人たちと共に元右衛門に会って、なんとか勘当を許してやってくれるように頼むことにしました。
頑固に拒否する元右衛門、そのそばで黙ってうなだれている妻、ともに周蔵の親です。強気を見せる元右衛門の口と心、その表面と内心は、決して同じであるはずがありません。何度も願ってくれる隣家の人たちの善意、特にこの日の良寛様の到来は、この両親にとって、まことに得難い仏陀(ぶっだ)の救いともいうべきものでした。それで、これまで誰の取りなしにも耳を籍(か)そうとしなかった元右衛門の心も、だんだん解きほぐされていったのです。やがて元右衛門が静かに言いました。
「みなさん、お忙しいのに何度もご苦労ですのう。とくに今日(きょう)は、良寛さままでお出(い)でくださって、まことにありがたいことですじゃ。もうこのうえは、皆さんにお任せすることにしますわい。ところで良寛さま、あの周蔵めに、きびしい手紙を書いてもらいたいのですがのう」
「よしよし、それはありがたい!」
誰よりも喜んだ良寛さんは、妻の用意してきた巻紙を拡(ひろ)げて、すぐに筆をとりました。
此度(このたび)貴様かんどうの事に付、あたりのものども、
いろいろわびいたし候(そうら)へども、なかなか承知無之
(これなく)候。私も参りかかり候故(ゆえ)、ともどもにわび
いたし候へば、かんどう許すことに相成り候。早速御帰
(おかえり)候而(て)可燃(しかるべく)候。さて御帰被遊
(あそばされ)候て後は、ふつがうの事なきよふに御たし
なみ可被成(なさるべく)候。
良寛さんは、宛名(あてな)を書き入れるまえに、元右衛門に読んで聞かせました。すると妻が、おどおどしながら言いました。
「良寛さま、あれは朝寝坊じゃで、これからは早く起きるように、それから、父親に逆らわぬように、それから、仕事もよくするように、それから、もう一ぺんとこんなことがないように、そんなことも書き添えてくださりませ」
「そうじゃったのう、はいはい」
再び筆を持った良寛さんは、にこにこしながら、次のように書き加えました。
第一あさおき、親の心にそむかぬ事、し事も手の及
(およぶ)だけつとめて可被遊候。其(その)他の事も
御心づけ可被遊候。かさねていかような事でき候
とも、わびごとはかなはず候間、さよふにおぼしめし
可被成候。 以上。
四月十四日 良寛
周 蔵 殿
この手紙が、すぐに木村家の下働きの男によって隣村の親戚の家で謹慎している周蔵の許(もと)に届けられました。そして、翌日、半年振りに周蔵がわが家の土を踏むことになったのです。
良寛さんは、その晩は心がはずんで眠れませんでした。あくる朝、いつもより早く起きた良寛さんは、何度も門前をうろうろして周蔵の帰りを待ちました。やがて、向こうの方からとぼとぼ歩いてくる周蔵の姿を見つけた良寛さんは、急いで玄関の戸を閉めて、内側から堅く押さえました。おどけて、周蔵の気分をやわらげてやろうとしたのでしょう。
ところが、まもなく玄関先まで来た周蔵が、大戸を開けようとしましたがあきません。首をかしげた周蔵は、仕方なく裏へ回って、勝手口から家の中へ入りました。暫(しばら)く彼の顔を見なかった母親は、さすがにうれしさを隠しきれないで、すぐに用意しておいた食膳に向かわせました。
気まずい父子、重々しい雰囲気のなかで、家族みんなが食膳に向かいました。その時、突然下働きの女が笑いながら言いました。
「アラ良寛さま あんなところで!」
みんな一斉に、女の指さす玄関の方を見ると、良寛さんはしきりに足をふん張って、一生懸命に戸を押さえているのです。みんな、どっと笑いこけました。
驚いた良寛さんが、振り向いてみんな方を見ると、すでに周蔵は家族と共に坐(すわ)っています。裏をかかれた良寛さんは、決まり悪そうに戻ってきて、周蔵のそばに坐りました。みんながまた、どっと笑いました。良寛さんも大きな声で笑いました。
--ここまで
元右衛門の妻が、息子宛の手紙の文面を書き足して欲しいとお願いした場面、その内容を読むと、実にほほえましく、いつの時代も子を思う親心というものは変わらないのだなぁ、と、しみじみと思いました。
また、この逸話を読んでわかったことがいくつかありました。
まず、良寛さんは生活の場を移動している、ということです。山の上の五合庵から乙子神社の境内、そして、木村家の邸内へと、請われるままに、また、老齢となった良寛和尚を村々の人々が労(いたわ)って、というのが理由かと思われます。
そして、土地の人たちは、良寛和尚を「良寛さま」と尊敬しながら大切にもてなし、また、畏敬するというよりは親愛の情を頂いて良寛和尚と接していたことがわかります。
良寛和尚は「市井に生きる人々とは別格の僧侶」ではなく、「市井に生きる人々と共にある僧侶」であったことがわかります。良寛和尚は「職業僧」を嫌っていたと思われます。こういう良寛和尚であったからこそ、明磧先生は良寛和尚をして「愚かなる聖(ひじり)」と呼んだのだと思います。(前回の逸話「何でも食う」を参照してください)
今回の「勘当された周蔵」のお話は、その「愚かなる聖」の面目躍如(めんぼくやくじょ)の逸話ですね。
私も人生の土壇場が幾度もありましたが、良寛和尚と知己があったらなぁ・・・と思いながら、ため息をついているところです。
名著『良寛さん』の逸話も残り少なくなってまいりました。少し休んで、大切に読んで行きたいと考えています。