ここ数回のブログでは、良寛和尚が、どうして手まりつきなどの子どもたちとの遊びに夢中になるのかという謎について、著者 植野明磧先生の解題を頼りにして、拙い読後感を書いてきました。
今回は、その謎を解く「二つの文献」について、明磧先生の解題を引用します。
文中の傍点付きの言葉は[ ]で表しました。太字と下線はブログ筆者によります。
--ここから
ところが、その謎(なぞ)を解く二つの文献があるのです。
その一つは、良寛さんの知遇を受けた漢学者、鈴木文台(すずきぶんだい)が、『草堂集(そうどうしゅう)』(良寛詩集)に添えた序文のなかで、「ある人が師に向かって、どうしてそんなに子どもたちと遊び戯れるのかと尋ねると、“子どもは真(まこと)であって、仮(いつわり)がないのが好きだからだ”と答えたという」と記していることです。もう一つは、文台の子の惕軒(てきけん)が書いた、『良寛禅師木鉢記』に、「父の文台が、あるとき、良寛禅師に、なぜそんなに子どもたちと遊ぶのかと聞くと、禅師が笑いながら、“わしは、子どもが楽しむのが楽しいのじゃ。子どもが楽しみ、わしが楽しみ、一度に双方が楽しむ、こんな大きな楽しみはないではないか”と答えたそうだ」と書き綴(つづ)っていることです。
わたしたちは、この二つの文章によって、深い良寛さんの意中の一端に触れることができるのではないでしょうか。
ときに、「良寛和尚は、託児所の創始者なのだ」という人があるようです。そしてまた、「良寛さんは、春秋の農繁期の故に、忙しい親たちにかわって子どもの面倒を見てやったのだ」という人もあります。なるほど良寛さんは、自らの無為無能を恥じて、実りの稲田で雀の見張りをする案山子(かかし)にさえ、
あしびきの山田のかかし汝(なれ)さへも穂ひろふ鳥を守(も)るてふものを
という歌を詠んで、その前を通るときは、感謝をこめたお辞儀を忘れなかった人です。まして、並々ならぬ農民の労苦に対して、深い感謝を捧げていたのは言うまでもないことです。
しかし、良寛さんが子どもと遊んだのは、忙しい親の手助けを意識してのことではありません。もちろん、保母のように、報酬を期待してのことでもありません。それは、当時の文台や惕軒が伝えているように、良寛さんはただ、子どもが好きだから子どもと遊び、子どもと遊ぶと、子どもが楽しむから、自分も楽しくなって、子どもとの遊びをやめられなかったのです。
純真無垢(むく)の子どもたちが、良寛さんにとっては仏そのものであり、子どもたちの声が、そのまま仏の説法でした。良寛さんは子どもたちとの遊びのなかで、自己の生命の浄化されていく悦びを、心から味わうことができました。良寛さんの手まりつきも、良寛さんの仏道行そのものだったのです。
このような良寛さんの“無作為、無所得”の[高い遊び]によってこそ、子どもが感化され、奇妙に思えた大人たちの心が温められたのであります。
--ここまで
明磧先生の解題を拝読し、「なぜ良寛さんは、こうまで手まりをつきたがるのか」というような疑問は、おそらく、「厳しい仏道修行をして高い悟りを得た良寛禅師」と「手まりをついて子どもらと戯れる良寛さん」とが結びつかない世間一般の疑問なのだろうと思いました。そして、「高僧」というイメージと「子どもたちと戯れる姿」とが重ならず、結びつかなかったというのが、私も含めて、世間一般の人の思いだったに違いありません。
やはり、良寛和尚は「高僧」であるかもしれませんが、決して「職業僧」ではなかったのです。
この「手まりつき」の逸話と明磧先生の解題によって、これまで読んできた様々な逸話が思い出され、結びつき、その時々の良寛和尚の心の内を、少しだけ理解できたような気持ちになりました。
40数年の時空を超えて明磧先生の著作を読ませていただけるありがたさに、しみじみと感激しています。名著『良寛さん』の読後感執筆も佳境に入ってきました。拙いブログですが続けていきたいと思います。
今回は座右に置いている辞書ですが、あえて読まず、明磧先生の解題を繰り返し読み、理解することに努めました。
今回は、その謎を解く「二つの文献」について、明磧先生の解題を引用します。
文中の傍点付きの言葉は[ ]で表しました。太字と下線はブログ筆者によります。
--ここから
ところが、その謎(なぞ)を解く二つの文献があるのです。
その一つは、良寛さんの知遇を受けた漢学者、鈴木文台(すずきぶんだい)が、『草堂集(そうどうしゅう)』(良寛詩集)に添えた序文のなかで、「ある人が師に向かって、どうしてそんなに子どもたちと遊び戯れるのかと尋ねると、“子どもは真(まこと)であって、仮(いつわり)がないのが好きだからだ”と答えたという」と記していることです。もう一つは、文台の子の惕軒(てきけん)が書いた、『良寛禅師木鉢記』に、「父の文台が、あるとき、良寛禅師に、なぜそんなに子どもたちと遊ぶのかと聞くと、禅師が笑いながら、“わしは、子どもが楽しむのが楽しいのじゃ。子どもが楽しみ、わしが楽しみ、一度に双方が楽しむ、こんな大きな楽しみはないではないか”と答えたそうだ」と書き綴(つづ)っていることです。
わたしたちは、この二つの文章によって、深い良寛さんの意中の一端に触れることができるのではないでしょうか。
ときに、「良寛和尚は、託児所の創始者なのだ」という人があるようです。そしてまた、「良寛さんは、春秋の農繁期の故に、忙しい親たちにかわって子どもの面倒を見てやったのだ」という人もあります。なるほど良寛さんは、自らの無為無能を恥じて、実りの稲田で雀の見張りをする案山子(かかし)にさえ、
あしびきの山田のかかし汝(なれ)さへも穂ひろふ鳥を守(も)るてふものを
という歌を詠んで、その前を通るときは、感謝をこめたお辞儀を忘れなかった人です。まして、並々ならぬ農民の労苦に対して、深い感謝を捧げていたのは言うまでもないことです。
しかし、良寛さんが子どもと遊んだのは、忙しい親の手助けを意識してのことではありません。もちろん、保母のように、報酬を期待してのことでもありません。それは、当時の文台や惕軒が伝えているように、良寛さんはただ、子どもが好きだから子どもと遊び、子どもと遊ぶと、子どもが楽しむから、自分も楽しくなって、子どもとの遊びをやめられなかったのです。
純真無垢(むく)の子どもたちが、良寛さんにとっては仏そのものであり、子どもたちの声が、そのまま仏の説法でした。良寛さんは子どもたちとの遊びのなかで、自己の生命の浄化されていく悦びを、心から味わうことができました。良寛さんの手まりつきも、良寛さんの仏道行そのものだったのです。
このような良寛さんの“無作為、無所得”の[高い遊び]によってこそ、子どもが感化され、奇妙に思えた大人たちの心が温められたのであります。
--ここまで
明磧先生の解題を拝読し、「なぜ良寛さんは、こうまで手まりをつきたがるのか」というような疑問は、おそらく、「厳しい仏道修行をして高い悟りを得た良寛禅師」と「手まりをついて子どもらと戯れる良寛さん」とが結びつかない世間一般の疑問なのだろうと思いました。そして、「高僧」というイメージと「子どもたちと戯れる姿」とが重ならず、結びつかなかったというのが、私も含めて、世間一般の人の思いだったに違いありません。
やはり、良寛和尚は「高僧」であるかもしれませんが、決して「職業僧」ではなかったのです。
この「手まりつき」の逸話と明磧先生の解題によって、これまで読んできた様々な逸話が思い出され、結びつき、その時々の良寛和尚の心の内を、少しだけ理解できたような気持ちになりました。
40数年の時空を超えて明磧先生の著作を読ませていただけるありがたさに、しみじみと感激しています。名著『良寛さん』の読後感執筆も佳境に入ってきました。拙いブログですが続けていきたいと思います。
今回は座右に置いている辞書ですが、あえて読まず、明磧先生の解題を繰り返し読み、理解することに努めました。