前回の最後の場面です。
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 子どもたちは、上手にうたう良寛さんの手まり歌を聞くと、なんとも言えないよい気持ちになって、かわいい手で拍子を取るのです。
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 このあと、植野明磧先生の解題が続きます。明磧先生の文章をそのまま引用します。

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 『良寛禅師奇話』のなかで例の解良栄重(けらよししげ)が、「師、音吐朗暢(おんとろうちょう)、読経(どきょう)の声、心耳に徹す、聴者、おのずから信を発す」と述べているように、良寛さんのお経を唱える声を聞いてると、みんな自然に信心(しんじん)の心が涌(わ)いてくるというのです。もちろん、経典の深い意味を理解して唱えるお経と、ただその文字の表面だけを読むお経とでは、それを聞く者の魂のゆさぶりかたが違うのは言うまでもありません。しかし、その音声やリズム感覚の良否をも見逃してはなりますまい。声のよい良寛さんが、手まり歌をうたいだすと、子どもたちが特に喜んだのも、その清純無垢(むく)な人格から流れ出る清々(すがすが)しい音声のリズムに、子どもなりに心が浄化されたからでありましょう。
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 明磧先生は、良寛和尚が単なる職業僧ではなく、深い悟りを得た、本来の僧であったことによって、聞く人の心を揺さぶったと解釈しながらも、さらに、良寛和尚の音声やリズム感覚がすばらしかったことも、聞く人の心を、魂をゆさぶったことも「見逃してはなりますまい」と断じています。
 
 私は昔、小学校教師をしていたので、どうしても「もし教師だったら」というフィルターを介して『良寛さん』を読んでしまいます。
 以前、ブログ(名著『良寛さん』の「涙のわらじ」を読む。)に書いたことがありますが、30数年前、私は新採用教員研修会の講師から、「教師は(生徒を指導する時には)演技ができなければならない。それもオーバー・アクションで。教師の気持ちを的確に生徒に伝えるための指導技術として。」と指導を受けました。

 今でも、ウケを狙う魂胆を背景とした演技では、子どもの心を打つことはできないと思いますが、明磧先生が「音声やリズム感覚」も持ち合わせなければならないとおっしゃるとおり、指導力とは、指導者の「心情と指導技術が融合した力」ではないかと思うに至りました。

 明磧先生が「清純無垢(むく)な人格から流れ出る清々(すがすが)しい音声のリズムに、子どもなりに心が浄化された」と喝破なさったとおり、教育指導でもボランティアでも、また、あらゆる日常生活においても、心からの思いが溢れ出た結果としての、無作為の行動を心がけたいと強く願った次第です。
 次回のブログに続きます。


  《辞書を読む》 国語大辞典(小学館1988)
  おんと【音吐】
  声の出し方。また、音声。
  音吐朗朗(ろうろう) 音声がゆたかでさわやかなさま。
  主として、詩や文章を読み上げるさまにいう。

  ※「朗暢」は載っていなかったので「暢」の字義を調べた。
  「暢」の字義 新漢語林二版(大修館書店2013)
  の-びる(のぶ)(伸)。
  長くなる。生長する。
  のびのびする。やわらぐ。「和暢」
  ゆきわたる。
  とおる。とどく。「流暢」
  の-べる(のぶ)(延)。の-ばす。広げる。

  以上から、「音吐朗暢」とは「ゆたかにのびのびと歌い上げる」
  くらいの意味と考えた。