植野明磧先生の名著『良寛さん』の「手まりつき」を読みました。
 5月7日と9日のブログで読後感を書いた「しらみと遊ぶ」の逸話も、その原書の奥深さによって、前編・後編に分けなければ読後感を書き上げられませんでした。
 今回の「手まりつき」も「しらみと遊ぶ」と同様に、逸話と明磧先生の解題が融合した長編で、明磧先生の良寛研究の真面目(しんめんもく)といえる、珠玉の一篇となっています。長編ゆえに、ブログで読後感を書き上げるに当たっては、いくつかに分割しなければならないと考えています。

 逸話は次のような文章で始まっています。

--ここから
  冬ごもり 春さりくれば 飯(いい)乞ふと 草の庵(いおり)を
  立ち出(い)でて 里にい行けば
  玉鉾(たまほこ)の 道の巷(ちまた)に 子どもらが
  今を春べと 手まりつく ひふみよいむな
  汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ 吾がつけば
  汝はうたひ つきてうたひて
  霞たつ 長き春日を 暮らしつるかも

  霞たつ長き春日を子どもらと手まりつきつつ今日暮らしつ

 長い冬の間、国上山(くがみやま)を埋め尽くしていた深い雪もようやく解けて、一面の草木が軟らかな芽を吹き始めました。
--ここまで

  《辞書を読む》 ※『国語大辞典 新装版』(小学館1988)
  たまぼこ【玉鉾・玉桙】
  (上代は「たまほこ」とも)
  (1) 玉で飾った鉾。また、「たま」は美称で、立派な鉾。
  (2) (枕詞「たまぼこの」から転じたもの)
  1 道。または道中。
  2 足。または歩み。

  たまぼこ‐の【玉鉾の】 [枕](「たまほこの」とも)
  1 「道」にかかる。語義、かかり方未詳。
  2 「里」にかかる。「道」にかかる用法から転じたものか。

  たまぼこひゃくしゅ【玉鉾百首】 江戸後期の歌集。上・下巻。
  本居宣長著。天明六年成立。神国としてのわが国の成立などを
  一〇〇首の和歌で表した。

 冒頭の句は、良寛和尚のものを著者 植野明磧先生が逸話の冒頭にお書きになったものと思われます。
 良寛和尚といえば「子どもと遊ぶ」、「子どもと遊ぶ」といえば「手まりつき」「かくれんぼ」・・・のようなイメージが強いと思います。今回の逸話は、まさに「手まりつき」のお話です。

 では、冒頭の句に続く、明磧先生の名文をお楽しみください。

--ここから
今よりはいくつ寝(ぬ)れば春は来(こ)む月日よみつつ待たぬ日はなし

百日以上も、独り五合庵(ごごうあん)に閉じ籠(こ)もって、こんなに待ち侘(わ)びていた春がやってきたのです。うれしくてたまらない良寛さんは、にこにこしながら山を下って里に出ました。
「ああ、良寛さまじゃ」
「わーい、良寛さまあ」
 村の辻(つじ)で、手まりをついて遊んでいた子どもたちが、良寛さんの姿を見つけると、大声で呼びながら、われ先にと駆けて行って、良寛さんの腰の周りにしがみつくのです。そして、良寛さんをひょろひょろさせながら、自分たちの遊び場所へ連れてきました。
「良寛さまも、まりつきだよ」
「ああ、よしよし」
「まだ、オチエちゃんがつくのだよ、良寛さま」
「そうか、そうか、よしよし」
 さっきの続きをオチエがつき始めると、子どもたちが声をそろえてうたいます。良寛さんは、それに合わせて、にこにこしながら手拍子を打ちます。
 つき手がオフミにかわりました。
「良寛さまも、うたってよ」
「ああ、よしよし」
 良寛さんは、楽しそうにうたいだしました。それは、自作の手まり歌です。
  おせんや おせん なぜ髪ゆわぬ
  くしがないかや かがみがないか
  なぜ なぜ 泣いて 髪ゆわぬ
  くしも かがみも 山ほどあれど
  ととさん 死なれて 三吉 江戸へ
  なにを楽しみ 髪ゆおぞ
 子どもたちは、上手にうたう良寛さんの手まり歌を聞くと、なんとも言えない良い気持ちになって、かわいい手で拍子を取るのです。
--ここまで

 私は、三方を海に囲まれた温暖な関東南部で生まれ育ちましたので、雪には滅多にお目にかかれません。ですから、良寛和尚が生きた越後の豪雪は、知識としてはわかりますが実感が伴いません。
 それでも
 
今よりはいくつ寝(ぬ)れば春は来(こ)む月日よみつつ待たぬ日はなし

という良寛和尚の短歌を口ずさむと、春を待ち望む良寛和尚や村人たちの気持ちが、ひしひしと伝わってきます。

 良寛和尚の自作の手まり歌は即興なのかどうかは分かりませんが、悲しい内容なのに、子どもたちは「なんとも言えない良い気持ち」になるのですから、良寛和尚の声は、子どもたちの心に沁みこむような、よい声だったに違いありません。
 いや、「よい声」というより「心に沁みこむ声」とは、声を発する良寛和尚の生き様・境地そのものだったのでしょう。
 科学の粋を集めて、良寛和尚の肖像画から骨格を解析して合成した声を作り出したとしても、「心に沁みこむ声」にはならないでしょう、きっと。
 これ以上、下手な読後感を書いていると、明磧先生に申し訳ないので、本日はこれにて失礼します。次のブログに続きます。