名著『良寛さん』の「しらみと遊ぶ」の後編を書きます。前編の逸話に続き、後編は、著者 植野明磧先生の解題のみで構成されています。
以下、解題を全文引用させていただきます。下線はブログ筆者によります。また、現代教養文庫版『良寛さん』を参照し、誤植の訂正をしています。
明磧先生の『良寛さん』初版が発行された1974(昭和49)年当時の世相を併せ考えると、いっそう心に沁みる解題であります。
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しらみの命を畏敬する
良寛さんが、やたらにしらみを殺したりしないで、わざわざもとのふところへ戻してやったのは、単なる感傷的な心理の表現ではありません。またそれは、悟り臭い偽善者の振舞いでもありません。万物とつながる命を生きる良寛さんは、生きようとするしらみの意志に、心の耳を傾けることによって、その尊い生命をいとおしみ、それを心から畏敬せずにはおれなかったからです。
ところで、いま私たちは、経済の高度成長による物質的繁栄のなかで、公害問題に悩まされています。企業生産の拡充のために、あるいは、レジャー施設の増設のために、いたるところの自然が破壊され、企業から吐き出される有害物質によって、海も、川も、大気も、汚染と汚濁の度を加えていきます。そして、その有害物のために、わたしたちの生命が危機にさらされているのです。
わたしたちは、この重大な公害問題の解決のために、公害の原因となる、汚物や有害物を排出しないような、科学技術の改善と、企業者の倫理的自覚を、強く要求しければなりません。しかし、わたしたちが、単に企業の責任のみを追及し、政治が、党利党略の政争の具として、公害問題を論議するだけでは、公害の根本的な解決は望むべくもありますまい。
いま、わたしたちにとっての最も重要な課題は、経済大国の豊かさのなかで、すっかり見失われている、生命に対する畏敬の念を、急いで取り戻すことです。しかも、それは単に人間の問題だけでなく、草木や虫魚や鳥獣にいたる、すべての生きとし生けるものの、生命への畏敬の心を取り戻すことです。というのは、人間も他の生きものと同じく、大自然の一員であって、ほかの生物の死滅は、直接間接に、わたしたち人間の生命の滅亡につながっているからです。
わたしたちは、良寛さんのように、しらみの生命をさえ、畏敬してやまなかった、その心を心としてはじめて、この公害問題の根本解決が期せられることを、知るべきでありましょう。
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『良寛さん』初版が発行された1974(昭和49)年頃は、日本の公害問題が多発し、解決がなされないまま、高度経済成長の「行き止まり」「翳(かげ)り」が噴出しつつあった時期でした。
ネットで「日本の公害問題」を検索すると、明磧先生が心を痛めていらっしゃったであろう公害事件がたくさん出てきました。
(戦前)
1885年 セメント工場の煙突からの降灰問題。
1890年頃 足尾鉱毒事件。
1910年頃 イタイイタイ病
1937年頃 安中公害訴訟
(戦後)
1956年 水俣病
1960年 四日市ぜんそく
1965年 第二水俣病(新潟水俣病)
1970年 光化学スモッグ/田子の浦港ヘドロ公害/スパイクタイヤによる粉塵公害
明磧先生が、読者に強烈な印象を与える「しらみと遊ぶ」の逸話を『良寛さん』に収録なさったのは、このままでは公害によって、人間を含む地球上の生きものの生命が絶たれてしまうという「危機感」からだったのかもしれません。
解題にあるように、明磧先生の「危機感」は、まさに良寛和尚そのものの心情の発露だったのだと、私は思いました。
解題にあるように、明磧先生の「危機感」は、まさに良寛和尚そのものの心情の発露だったのだと、私は思いました。
《辞書を読む》
※『国語大辞典』(小学館1988)
いけい(ヰ‥)【畏敬】
偉大な人や権力のある人を、おそれうやまうこと。「畏敬の念を抱く」
くさい【臭い】
Ⅰ(略)
Ⅱ 〔接尾〕(形容詞型活用)卆くさ・し(形容詞ク活用型活用)名詞あるいはそれに準ずるものに付いて、そのように感ずる意を表わす。
1(略)
2 そのような傾向がある。そんなふうに思える。それに似ている。らしい。*栂尾明恵上人伝記‐上「山寺は法師くさくてゐたからず」
ぎぜん【偽善】
うわべだけを飾って正しいように、あるいは善人のように見せかけること。⇔偽悪
ぎあく【偽悪】
(「偽善」に対応してできた語)わざと悪を装うこと。⇔偽善
ぎぜんしゃ【偽善者】
偽善を行なう人。偽善家。
とうり(タウ‥)【党利】
ある一つの政党・党派などの利益。「党利党略に溺れる」
とうりゃく(タウ‥)【党略】
党派・政党としてのはかりごと。党として用いる謀略。「党利党略」