3.11の年の4月から3か月半、私は神戸市内で瀕死の状態からの回復を図っていました。それは、3.11 が原因ではなく、その数年前から人生が突然「遮断」されたことによります。
 神戸市内にいたとき、教頭時代に仕えた上司から手紙が届きました。その手紙は、激励の言葉とともに、

 「もし(素人学者)さんが学校現場にいてくれたら、どのように子どもたちを 3.11 に向き合わせただろうか。どのような学校経営をしただろうか、おそらく、独創的で的を射た方策を考えてくれただろう・・・と、(素人学者)さんを知る人たちと話しています。」

という言葉で締めくくられていました。すでに退職されていた方ですが、現職時代の部下が管理職に登用されるようになり、被災地支援の教育のあり方について、相談が多くあったのでしょう。

 こんなことを思い出したのは、先日のネパール大地震を知ったことが直接のきっかけですが、私の心の中に名著『良寛さん』の逸話と植野明磧先生の教えが少しずつ蓄積されてきたからだろうと考えています。

 学校勤務時代のかすかな記憶を辿れば、募金活動や被災地への激励手紙の送付などは、教職員や生徒会・PTA役員などが相談して、どこの学校でもやっていることだと思います。
 私は、これらの活動を否定するつもりはありませんし、すぐにできる活動として奨励されるべきだとも思います。

 ただ、現職時代から、これらの教育活動について、「何か足りないものがある」という、「漠然とした疑問符」がいつも頭の中に点灯していました。何が足りないのか、当時はいくら考えてもわかりませんでした。
 ところが、ネパール大地震の悲惨な様子をテレビで見ていたとき、「あっ!」と声を出してしまいました。頭の中にひらめいたことがあったのです。

 それは、
 
「被災地で苦しんでいる人たちと同じ目線に立つ」

ということでした。
 言葉で説明することはとても困難で、読者に誤解を与えてしまうこともあろうかと思いますが、あえて書いてみようと思いました。

 生徒が、募金や手紙の執筆という活動に入る「前」が大切だと思うのです。

◎教職員や児童生徒、PTAの気持ちが、被災地や被災した人々のところに“ある”。
 (「向いている/見ている」という感覚ではなく、「そこにいる」感覚)
◎「募金をして(あげて)いる」という「上から目線」を取り除かないと、本当の意味でのボランティア精神は育まれない。「上から目線」の心情を溶解させるには、実践の「前」が大切。
◎(災害発生のメカニズムなどの)知識理解の指導の前に児童生徒と向き合うことはたくさんある。

 こんなことを、教育活動の中で、教師集団、児童生徒、PTAで十分に「練る」ことが不可欠だと思うのです。

 私が現職の頃、「道徳的実践力」という言葉が学校現場には氾濫していて、道徳なのか国語なのかわからない授業、特別活動(学級活動、委員会活動など)なのか総合学習なのかわからない授業、何をめあてにして実施したのかわからない授業が増加していました。

 以上、こんなことを書いている私自身が「上から目線」にならないように自省しています。