本日2月12日(木)と翌13日(金)は、居住県の公立高校の前期入学試験日です。今年は私の生徒の中に受験生はいませんが、来年の今頃は、大学受験が2名、高校受験が6名もいます。これからの1年間の勉強を充実させてほしいと願うばかりです。
 そこで、過日、ブログでお世話になっている Atsuko さんとのコメントを通しての会話で、「コクヨ キャンパスダイアリー」というスケジュールノートを知り、このスケジュール帳(B5判2015年用)を8名分取り寄せ、受験勉強の計画作りを指導しようと考えています。

閑話休題

 さて、この「銭を拾う」という作品は植野明磧先生の名著『良寛さん』の第六話として収録されています。
 過日、本作品に登場する四字熟語を辞書で調べたことをブログにしましたが、作品の書評としては不完全なものでしたので、改めて読み直し、読後感を書こうと思いました。

 あらすじは次のとおりです。
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 良寛さんが春のうららかな日に、地蔵堂の村へ托鉢に向かう途中、二人の百姓が田の畦ではしゃいでいる。平助が昨日、銭を拾い、良寛さんに「銭を拾うちゅうのは、そりゃあ、気味のええものですぞ!」と話した。
 良寛さんは銭を拾った経験がないので、意味を理解できなかったが、平助の喜ぶ姿を見て、自分も嬉しくなった。
 この日の夕方、良寛さんは(路に落ちている銭を拾うのは、そんなに小気味よいものかなあ、よしっ、ひとつわしもやってみよう。)と考え、村人たちからお布施に貰った一文銭を、路上に落とし、すぐ拾ってみたが、嬉しくもなければ楽しくもない。
 (やり方がまずいのかなあ?)と、良寛さんはなんべんも繰り返しているうちに、その銭が草むらの中に転がり込んで行方がわからなくなった。
 うろたえた良寛さんは、青くなってあちらこちらを探し回り、ようやく見つけ出すことができた。「ああ嬉しい!」と良寛さんは小躍りして喜んだ。
 それから数日後、良寛さんは、「ほんとうに、銭を拾うのは嬉しいものじゃ、わしは、はじめ兵助どんや弥平どんにだまされたのかと思うたが、だれも、だます者はいないよ。」と、そのときの喜びを人たちに話した。
 間の抜けた話を聞かされた人たちは、ただあきれ果てて笑うばかりだった。
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 このあと、著者の植野明磧先生は、良寛和尚に師事した儒者 鈴木文台の良寛評を紹介して解説し、「良寛さんの言動をただ部分的に捉えて、その賢愚を評定するのは早計だといわねばなりますまい。」と述べ、「良寛さんこそ、実に偉大な愚者というべきであります。」と作品を締めくくられました。

 良寛和尚は無作為の言動を取ります。無作為とは字のごとく「作為が無い」という意味ですが、では、「作為」とはどういうことでしょうか。
 『大辞林 三版』の語義①によれば「あることに見せかけようと,わざと人の手を加え手直しをすること。ことさらに手を加えること。つくりごと。」とあります。良寛和尚は「見せかけ」をしません。まさに「作為」は良寛和尚の生きざまの対極といえます。
 それこそ私のような愚者は、良寛和尚が一人、庵で思索しているとき、いや思索すらしないのかもしれませんが、いえいえ、やっはり思索はするでしょう。そのとき、良寛和尚はどのような顔をして、何を考えているのか訊いてみたいと思ってしまいます。
 このようなことを書くこと自体、私の人生は「作為だらけ」であります。(深い溜息)