植野明磧先生の名著『良寛さん』を少しずつ、ていねいに読んでいます。ざわざわした気持ちが静まります。同時に、現役教師時代のわが身を恥じています。
 今回読んだ『良寛さん』の章は「障子に書く」で、実は、ブログでお世話になっているAtsukoさんが、ご自身のブログ『神戸市西区Atsukoきもの着付け教室』で、1月31日にお書きになっています。
 私の心に灯った文章がありました。

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 それに、良寛さんは、「わしの嫌いなものに、三つある。それは、詩人の詩、書家の書、料理人の料理である。」と言って、専門家ぶることを大層嫌いました。
 ─ 植野明磧 著『良寛さん』(柏樹社1974)P46「障子に書く」より ─
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 良寛和尚の嫌いなものに「四つ目」があるとしたら、
教職員の教育指導
とおっしゃるのではないかと思いました。
 
 かつて教職にあった時、師と仰いでいた岡田勝太郎先生がおっしゃった言葉を思い出します。

「“教材研究”と“こども研究”は、教育研究の両輪である」

 私は、“教材研究”は人一倍したという自負がありますが、“こども研究”は“しているふり”で終わってしまったという、悶々とした気持ちを持ち続けています。

 『良寛さん』の「障子に書く」の章には、次のような文章もあります。

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 それで、当時、越後に遊んだ江戸の大儒であり書家であった亀田鵬斎も、「わしは、良寛禅師に学ぶことによって、草書の妙を悟り、わしの書に一格を長じた。」と言い、数年の後江戸に帰った彼の書を見る人たちも、
鵬斎は越後がえりに字がくねり
などと評して、その書をほめたたえたというのです。
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 亀田鵬斎のことを知りたくなったので、永江朗氏が『望星 2月号』で推していた
『広辞苑』(第六版)を引いてみました。

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かめだ-ほうさい【亀田鵬斎】江戸後期の儒学者。名は長興。江戸生れ。井上金峨に師事し、古文辞学を排撃、寛政異学の禁で弾圧される。著「大学私衡」「論語撮解」「善身堂詩鈔」など。(一七五二 一八二九) → 折衷学派
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 ふぅむ、『広辞苑』は人名事典も兼ねているのかと、少し感心しました。
 そして、上記の亀田鵬斎の項に出てきた「
古文辞学」と「寛政異学の禁」が『広辞苑』にあるかどうか、探してみました。

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こ-ぶんじ・がく【
古文辞学】荻生徂徠おぎゅうそらいが唱えた学問。聖人の教えを理解するには経書を古文辞(古代中国語)で読解すべきとし、朱子学や仁斎学を批判。徂徠のほか、服部南郭・太宰春台・山形周南らによって代表され、古文辞学派・蘐園けんえん学派または徂徠学派と呼ぶ。

かんせい・いがく-の・きん【
寛政異学の禁】松平定信による寛政の改革の諸政策の一つ。一七九〇年(寛政二)、定信が林大学頭に宛てて出した、朱子学を正学とし昌平黌しょうへいこうでの異学教授を禁止する旨の諭達をいう。九七年幕府は昌平黌を林家から接収、幕府直轄の昌平坂学問所に改め、教学政策を推進。
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 たしかに『広辞苑』は、調べたい言葉を芋づる式に調べたくなる、不思議な魅力 ─ 『大辞林』とは少し異なる魅力 ─ があると思いました。
 しかし、拡大鏡なしには絶対に読めない文字の小ささには閉口しました。「わが身の哀しさ」ではなく「わが目の哀しさ」です。