私は、小学校の学級担任を経験したあと、市や県の指導主事を長くやっていたため、小中学校の各教科の教科書は「教材配列が重要な意味を持っている」ことを知っています。
 つまり、「この単元でこれを学んだら、それを受けて、次の単元ではあれを学ぶ」という、児童生徒の「学び順 = 教材配列」が大切なのです。
 20代のころ、校内国語研究会で代表授業者に指名されたとき、当該地区の教科書以外の出版社の教科書を数種類取り寄せて、自分の使いたい教材を複数の教科書の中から選んで授業に臨みました。
 授業後の分科会(授業者と参観者の合同反省会)で、授業自体は好評だったものの、講師の指導主事から次のように指導を受けました。

・複数の教科書を用意して、授業者が使いたいと思った教材で授業を行うこと自体は、大変熱心で、よいことだ。
・しかし、1冊の教科書は、どの教科も、教材配列を考え抜いて作られている。つまり、子どもたちが年間をとおして、その学年・その教科で学ぶべきことを無理なく合理的に学べるように教材が選ばれ、教材の学び順が厳密に決まっている。
・したがって、授業研究会で授業者が好む教材を他社の教科書からもってきたとしても、子どもたちが年間とおして使う「自分たちの教科書」の単元と入れ替えることは、本来学ぶべきことを学ばないまま過ぎてしまう危険があることを知りながら、授業研究をしてほしい。
・授業研究用に他社の教科書教材を使ったとしても、当該地区の教科書は全単元学ばせるべきである。

 (例)その学年で学ぶ漢字や熟語・慣用句などは学習指導要領で決まっているが、年度内のいつごろ、どの漢字・熟語・慣用句を指導するとまでは決まっていない。したがって、同一の教科書を通年使うことで、当該学年のすべての漢字・熟語・慣用句を学べることになる。もし、特定の教材を他社の教科書教材と交換すると、本来の教材で扱われる漢字や熟語・慣用句が、交換した他社の教材で学べるかどうかは不明である。

 こういうことって、義務制の学校(小中学校)だけのことでしょうか?
 高校の教科書にはないのでしょうか。

 実は、私とともに“文語文法同行二人”をしている高校2年のCさんが悲鳴をあげています。
学校の先生の気分で(!?)、授業で扱う教材が、教科書の前のほうから後ろのほうへとランダムに飛ぶというのです。
 予習をするにも、どこを予習すればよいのか見当がつかないというのです。

 複数の教材が合わさって構成される1つの単元が終わったら、掲載順ではない別の単元に進むというのなら「そういうこともあるのだろう」と理解できるのですが、Cさんとともに4月から今月までの学校の授業の進み方を教科書で確認すると、私も「これでいいのかなぁ?」と疑問を抱いてしまいました。
 というわけで、Cさんとの勉強は“文語文法同行二人”などと、のんびり“旅”をする暇(いとま)もなく、最先端の新幹線に乗車したような、遊園地のジェットコースターに乗り込んだようなことになっています。
 つまり、“文語文法同行二人”の旅は夏休みだから許された勉強だったといえます。まあ、これはしかたのないこととわきまえて(?)います。

 高校の授業では・・・というと広すぎるので・・・少なくとも高校古典の授業における教材配列は、小中学校の国語教科書ほどに重要視されないのでしょうか。
 どなたか、ご教示ください。