⚾️怪童🥎の愛称で知られた中西太さんが、亡くなった。90歳でした。
中西氏は、1952年西鉄に入団、HR王5回や打点王3回、首位打者2回のタイトルをとってきた。62年からは、プレーイングマネージャーとなり、翌年、西鉄最後の優勝を飾り、69年で現役引退、退任、引退後は、ヤ
クルト近鉄、オリックスで打撃コーチ、日本ハムや阪神では監督を務めました、99年に殿堂入り。
現役時代、内野手がジャンプした打球がそのままスタンドインしたという豪快な伝説があったり、160m以上の特大アーチもあった。悪役商会の八名信夫さんも投手で、怖い顔してるが、八名さんも太さんが一番怖いと言ってました。体型からして、鈍足に見えそうですが、入団2年目に『トリプルスリー』も達成していて、村上が高卒二年目に36HR打ったが、これも中西太さん以来です。
4度(1度は選手兼任監督)リーグ優勝に貢献し、3連敗4連勝の逆転に日本一となった1958年の日本シリーズでは、第5戦から3試合連続HRも記録など、大舞台にも強かった。
監督時代は、1963年の一度だけですが。首位だった南海に最大14.5ゲーム差つけられながらも、逆転優勝で、日本シリーズでは、巨人に屈したが、川上哲治監督相手に3勝したのは、中西太さんだけです、日本ハム監督では、義父の三原脩さんが球団社長で、2年間務め、阪神っでは、途中から務めた、江本孟紀さんの爆弾発言あったが、岡田彰布さんをレビュラ−できようした。
コーチ時代は、若松勉さんはじめ、たくさんの選手を指導し、主力打者になった、中西さんの指導受けた選手が、コーチや監督になり。たくさんの選手がでてきた、村上は孫とお祖父ちゃんの関係ですね。
仰木彬さんが監督務めた近鉄.オリックスで、3度優勝経験するが、中西太さんが、参謀としていたからだと思う、ブライアントには三振が多くてもお、一切文句はなかった。選手のいいところ引き出した指導でした。
1988年10月19日、『10.19』では、第1試合の9回二死から、梨田が執念に安打で、二塁走者の鈴木貴久さんが、セカンドから、捕手のタッチをかいくぐってホームインした時の、出迎えるシーンは、一生残る。
ただ、中西太さんにも弱点あり、MBSラジオ『上泉雄一のええなあ』が昼番組の時代、月曜日のコメンテーターが、弟子の一人金村義明さんが言うには、声がでかいので内緒話ができないでした、


