門田博光は、天理高校、クラレ岡山を経て、69年D2位で南海ホークスに入団。
俊足・強肩。好打の打者として71年にレギュラーに定着すると、打率.300、31本塁打 120打点(打点王)を残した。野村監督時代は主に3番として活躍。大振り禁止令も出たくらいだった。
79年2月、アキレス腱断裂をきっかけに、「全打席ホームラン狙う」と本塁打狙いに徹し、80年の40本塁打を放つと、翌年は、44本で本塁打王を獲得。その年の7月には、オールスター休みがあるにも関わらず月間16本はプロ野球新記録(2013年にバレンティンが8月18本で更新)。83年にも40本で本塁打王を獲得すると、88年、40歳になったシーズンでは44本塁打、125打点は本塁打王と打点王の二冠獲得。パリーグMVPにも輝いた。40歳代の40本塁打以上は、大リーグでも1例しかない記録。40歳でのMVPも最年長。「不惑の大砲」、不惑は流行語大賞になった。
その年で、南海は消滅し、ダイエーが福岡に移転をきっかけに、自身も関西に残りたいという思いから、内田、原田、白井の3選手と交換トレードでオリックスに移籍。オリックス時代は、1990/9/9と9/10に2試合連続サヨナラ本塁打を打った。2年間で64本塁打。91年から、福岡ダイエーホークスに復帰。オールスターにも選ばれ、広島市民球場で桑田から本塁打を放ち、43歳で最年長ホームランとなった。92年に引退、引退試合では、平和台最後の試合となり、3番指名打者でスタメン。最初に本塁打を打った野茂相手に、三球三振で終える。通算567本塁打は歴代3位。40歳以降の本塁打は、134本塁打。
プレースタイルは、常にフルスイングで本塁打狙い。のむサンと衝突したことあった。ある日のオープン戦で、王貞治を介して、「ヒットの延長が本塁打と」説得してもらうはずだったが、野村克也と王が二人で口裏合わせしてると駄々をこねた。門田の考えはヒットはホームランの打ちそこないと述べるくらいです、ただ、参考にしたのも、バットスイングをしてるのむサンがいて、鏡の中の左打者、野村克也を研究材料した。
大けがする前から、本塁打へのこだわりがありまた。ほとんどDHだったのは、守備が苦手ではなく。アキレスけん断裂の大けがきっかけ。入団当初は、足も速く、強肩の外野手で、2桁補殺5度記録してます。大けがしなければ、「トリプルスリー」達成できる電主でした。
現役時代も、生まれ故郷奈良に在住で、大阪球場には、南海のライバル球団近鉄電車で通勤しました。
ある試合では、本塁打を打った際、ホームベースで、ブーマーとハイタッチした瞬間脱臼したこともあった。引退後は、解説者を経て、2006年に殿堂入り、「わしの墓場」と述べた時、金田正一氏に怒られ。「これからも後進のために頑張ると約束してくれ」と激励を受けました。病気はしたが、クラブチームの監督も務め、今は、臨時コーチの役割で、指導に当たってます。
野村監督にとって3悪人がいました、江本、江夏、門田の3人、3人とも現役時代は、我の強い選手でした。
今年、清宮が高校通算111本で騒がれてます。門田もプロで567本打ってきたので、高校時代もたくさん売ってきたように思われるが、1本も打ってません。ねるまも惜しんでバットスイングに明け暮れたのだと思います。パリーグのことを「パアリーグ」と言いていた。
これからも、野球界に何らかの形で貢献してほしいです