今から14年前の11/11、かつて南海のエース、そして南海最後でダイエー初代監督の杉浦忠氏が、遠征先の札幌で亡くなった。66歳だった。
前日は、この年から、プロ野球選手OBによるマスターズリーグが開催され、大阪ロマンズに所属し、このチームの指揮をしてる吉田義男氏が所用のために変わりに監督として指揮をしました。突然の訃報でした。マスターズリーグは現在は廃止されてますが、参加条件は、引退して選手が参加できるのですが、コーチ、監督等チームに所属してる人物は参加できないルールになってます。
1958年、立教大学から南海ホークスに入団。大学時代は杉浦、長島、本屋敷とともに「立教3羽カラス」と呼ばれた。杉浦の2年先輩に大沢啓二氏がいて、南海の監督だった鶴岡監督に、杉浦と長島を紹介した形になり、長島も南海入りが確実だったが、長島は巨人に入団した。
2年前に楽天の則本が新人開幕投手に任命されたが、杉浦も新人の年に開幕投手を任され勝利投手になり、27勝を挙げ新人王を獲得。翌59年は38勝4敗マー君の24連勝とは比べ物ならないが、驚異的な勝率(.909)を残し、日本シリーズでは、マメをつぶしながらも4連投4連勝の活躍で南海初の日本一に貢献し、シリーズMVPを獲得。
61年に、20勝はしたものの、連投により右腕の血行障害に陥り、移植手術を受けた。聞いた話によれば、野球どころか切断の危機に見舞われた。復帰後は、2桁勝利を挙げることはあったが、晩年は、長いイニングが投げれなくなり、この当時はSの観念はなかったが抑えを任された。
69年を最後に引退するつもりだったが、次の年から同期生の野村克也が監督することにで、野村監督に説得される形で、1年現役を一緒に過ごし、70年に現役引退。通算187勝を挙げた。
翌71年に行われた引退試合では、最後の打者に長島が入り、あんまり好きではないわざと三振して花を持たす儀式があるが、長島らしくセンター前にヒット。杉浦氏は「マジで向かってきてくれたことに、自分は凄く嬉しかったし、自分は誇りに思う」とコメントした。
引退後は、1974年から立教大学の先輩、近鉄の監督に就任した西本幸雄に誘われる形で、投手コーチに就任し、76年まで3年間勤め、再び、評論家生活。85年オフに、南海最後の監督に就任。最初は最下位だったが、翌87年は、加藤秀司を新戦力に加え、結果は4位でしたが、シーズン終盤まで3位健闘した。88年は、さらなる期待も膨らんだが、開幕7連敗が響き、5位で終了。
本拠地を大阪から福岡に移し、球団名もダイエーに代わり、初代監督を務め、4位で終わったが、この年のパリーグは近鉄、オリックス、西武の三つ巴になり、大混戦となり、ダイエーは、上位3チームに健闘し、優勝した近鉄に13勝11敗2分けと勝ち越し、この大混戦を演出した。この年で、監督を退任し、この後も、94年まで、球団常務として携わった。
解説者に戻り、球団は九州に移したが、解説の仕事の時は、堺市の自宅から、通勤してたようです。
杉浦氏の投球スタイルは、自身はアンダーソロー出ないと否定したが、「華麗なるアンダースロー」のイメージが強く、牧田や渡辺俊介は球速出ないが、杉浦は、150km/hは出てたと思います。サイドやアンダーは、シンカーを球種に増やすのですが、杉浦の場合は、野村克也に反対されたみたいで、それでも、挑戦しました。
大阪球場での、南海ホークスとして最後の試合では、近鉄の快勝し、その後のセレモニーでは「長島君ではないがホークスは不滅です」締めの「行ってまいります」は、福岡での決意や、大阪のファンに対する思いが交錯したと思います。
杉浦氏は、長島茂雄とは違って、紳士的でスマートが当てはまる人物で、試合では、マウンドを降りてたまるものかという漲る投手でした。特に、稲尾との投げ合いにあらわれたと思います。