佐藤和弘は熊谷組から1989年D1位でオリックスに入団。野茂の外れ1位でした。1年目に規定打席には遥かに遠いが.331の高打率を残し、2年目は2本の本塁打を放つも打率が下降線をたどり、3,4年目は出場機会が激減。仰木監督に変わり、背番号も「45」から「90」に変更とともに、登録名も鈴木一郎とともに、「イチロー」「パンチ」と売り出す。これは、当時打撃コーチに週就任した新井宏昌氏の提案でした。パンチと言ってもあだち充のアニメ「タッチ」に出てくる犬ではありません。わずか5年で現役を引退するが、その時のコメントで「闘将上田監督 仰木マジックの仰木さんお世話になりました。」と言ってました。3年間勤めた土井正三の名前が抜けてました。
佐藤和弘氏は、「パンチ君」と言うあだ名があり、遠くに飛ばす力があるものだと思ったら、髪型がパンチパーマだったのでそういうネーミング出した。北島三郎をまねたものと思います。
イチローが出てくる前は、松永や藤井、星野伸行等よりもパンチ佐藤が全国区でした。出たり出なかったりの選手だったのにテレビでの露出度、バーゲンのCMにも出演しました。
特に試合終了後のヒーローインタビューでは、実際にはそんなにたくさん入ってないのに「85000人」「125000人」ととんでもない数字を行ってみたり極めつけはインタビューアーが当時オリックスのコーチだった今津氏との酒では「◎×まで飲みたいです」やおやじギャグも言ってました。
プレー以外で記憶に残る選手でしたが91年の東西対抗オールスターで代打で登場し2ラン本塁打を放ちMVPを取り、観客に履いてたスパイクをスタンドに放り投げました。プロでは、通算2本塁打でしたが2本とも印象深いものになった。1本目は、平和台球場で行われたダイエー戦で9回二死敗色濃厚の中で打った同点本塁打。その時試合延長10回石嶺の本塁打でオリックスが勝ち、その後のインタビューでは「ホテルで帰って泣きたい」でした。もう1本は日生球場での近鉄戦で先制2ラン、試合は、9回に守護神のシュルージーがつかまり同点追いつかれ延長戦。延長11回にリリーフに失敗したシュルージーがレフトへ特大アーチを打ちました。指名打者制になってから初本塁打でした。
なぜ、DHでは投手は打席に入らないのに、投手が打席に入ったのかそれは、DHで出場した選手が途中守備につけば、交代したところに投手が打席に立たなければならないというルールがあり、この日も、多分、DHスタメンは石嶺選手で、守備固めの選手が入ったことで起きた現象でした。
ちなみにパンチ佐藤の高校の先輩には出川哲郎。亜細亜大学の同期には近鉄で活躍した阿波野秀行氏です。