法政大学時代は、田淵、山本浩二、富田とともに「法政三羽からす」と呼ばれ、当時、六大学最多だった8本の長島茂雄を大きく更新する大学通算22本塁打を放ち、97年に高橋由伸に抜かれるまで最多本塁打でした。
大豊作と言われた、68年のドラフトで阪神からD1位指名を受け入団。いきなり大学時代の通算本塁打背番号と同じ22本を放ち新人王を受賞。2年目も順調に本塁打を量産しましたが、大事故に見舞われることになります。8月の終わりごろ、広島戦で外木場から死球を受けたのです。耳に当たり、流血もしました。生死をさまよった見たいです。ここから脅威の回復力で、退院することができ、次のシーズンも望むことができました。
田淵選手の、死球がきかっけで、今では、義務化ですがヘルメットに耳あてが登場しました。現在とは違い、王さんや長島さんは、耳あてなしのヘルメットはかぶってました。ましてや、走者になるとヘルメットを脱いで、帽子だけの選手もいた時代です。
ついに念願のタイトルを手にすることができました。75年、これまで13年間本塁打王のタイトルを守ってきた王貞治から、43本の本塁打を放ち、本塁打王のタイトルを獲得しました。1973年4月から5月にかけて、巨人戦で7打数連続本塁打の離れ業。同年、ヤクルトの安田が81回連続無四球の記録を樹立したが、前後が田淵だった。江夏豊とバッテリーを組み「黄金バッテリー」と呼ばれた。
78年のオフ、大きな出来事が起きた、深夜のトレードと言われ、古沢とともに、真弓、若菜、竹ノ内,竹田との交換トレードで、次の年から、新球団となる西武ライオンズに移籍。西武時代は、捕手としては、ほとんど出場せず、主に、一塁手、指名打者として活躍。1980年に球団史上初の40本塁打を超え、阪神時代にもなかった、優勝も経験。1984年に現役を引退。最後の試合は久々に捕手として出場。最後の相手が阪急で、西宮球場だったので、阪神ファンも詰め掛けたそうです。
引退後は、評論家を経て、1989年オフに、ダイエーの監督に就任、3年間で6位、5位、4位と順位を上げたが、ほとんど西武、近鉄には大きく負け越した。監督として最後、平和台球場最後の年に、高卒新人だった村松を起用、3度の優勝に貢献する選手に成長した。
阪神には、星野監督が就任することにより、24年ぶりのユニホーム袖を通し、浜中治に「うねり打法」を伝授し、2003年は、途中けがで、戦線離脱したが、4番として、試合数とほぼ同じ打点を稼いだ。浜中自身もコーチに就任して、若手に伝授してるみたいです。
日本代表、楽天でも星野監督のもとで打撃コーチとして活躍した。阪神で星野監督の後、田淵が就くようなことを言ってたが、自身は、ダイエーで経験した結果。向いてないといってた。
現役時代通算本塁打は475本、金本が476本。金本より1本少ないだけです。ただ、400本以上の本塁打を打って、2000本安打を達成してない選手です。それだけ、本塁打に執着した結果だと思います。まさに天才ホームランアーチストでした。
打った後の、バットを高く放り上げるシーンをまねした人もいると思います。中村紀洋選手もキャンプでまねしたと聞きました。
守備は、決して得意ではなかったです、ファールボールを追わないとか、いろいろ不満が出たようですが。本人は、打った瞬間スタンドに入ることがわかってるから追わなかったようです。ただ、投手の心理として、追いかけてほしいものです。
田淵選手が、西武に移籍したばかりの時、「がんばれ!タブチクン」というアニメがあり、無様な場面が描かれて、爆笑し、親父に「田淵の現役時代の姿か」と聞くと帰ってくる答えが「それは漫画や」でした。タブランというわけのわからん言葉もで、なぜか、ヤスダと仲良しの設定でした。ヤスダといっても「モーニング娘。」にいた保田圭ではありません。あしからず。あんな描かれ方して、田淵自身も怒らなかったのかなーと思います。これがえんか知らんが、声の主は西田敏行で「探偵ナイトスクープ」の顧問としてもきました。
これからも、野球界に貢献してほしいです。