南予路ドライブの続きです

紫電改っていうと、、、




とか
トントンするやつw
とか思いつくけど
(年齢が丸わかりDANE☆)

こちらが本家





日本海軍戦闘機  紫電改

愛南町 南レク 馬瀬山公園
紫電改展示館に来ました(入場無料)
昭和53年、宇和海久良湾の海底に沈む紫電改が発見される
多方面の働きかけがあり、翌年紫電改が引き上げられた
     着水時の衝撃でプロペラが曲がったという
引き上げられた紫電改を保存展示しているのが、紫電改展示館です

終戦時、アメリカ軍が残った紫電改を全て焼却したから一機も残ってなかった
(アメリカの博物館にサンプルが3機保存されている)
紫電改とは
大戦末期、日本海軍が本土防衛のために開発した戦闘機。大戦中もっとも優れた戦闘機の一つと言われている。
選りすぐりのパイロットを集めて飛行部隊を結成。松山基地で訓練・戦った。
(戦局に合わせて部隊は移動した)
昭和20年7月、
高知沖 太平洋上の米軍空母から500機を超える戦闘機が出撃、呉軍港を空襲した。その帰路にある米軍機200機超を撃つために長崎 大村基地から飛び立った21機の紫電改。豊後水道で空戦し、6機が未帰還となった。
宇和海 から引き上げられた紫電改は、この未帰還6機のうちの1機であろう、という
未帰還の6名の方々  
大戦末期、戦闘機のパイロットの多くは20歳前後の若者であった
燃料タンク、部品、製図、基地の様子などがわかるもの、が展示されていました 遺族・同僚の手記もありました  貴重な資料だと思います 


下三角下三角下三角
紫のマフラー
松山市大街道にあった食堂喜楽
若主人 今井琴子さんと松山基地配属の紫電改パイロットとの交流があった
今井さんの白無垢の反物を紫に染め、刺繍を済美高女の学生が施した。こうして完成した紫のマフラーを紫電改パイロットに基地移動の餞別として送った、という

マフラーはオシャレのためではない。被弾時に油や破片から顔を守るため燃えにくい絹のマフラーは必須の装備だった。
ニッコリ笑へば
必ず墜す

元パイロットの笠井智一さん (存命、95歳くらいになられる) が戦死者の供養のためにと、現存する自身のマフラーを献品。

部隊ごとに合言葉があったという。笠井智一さんの部隊上官、伝説のエースパイロット杉田 庄一  氏(後に戦死) の合言葉を刺繍した。



浮き輪浮き輪浮き輪
松山市大街道  食堂喜楽 跡地
大街道一丁目 銀天街との交差点  今はキャンドゥ という100均のお店がある、ビルの壁に跡地の看板があります
今年の夏に、特別番組がありました
(かめのこは見逃した〜) 下矢印

2019年に、紫電改をテーマにしたラジオドラマがありました
こちらはyoutubeで視聴可能です
(貼り付け方がわかりませんでした。南海放送 紫電改でyoutube検索するとhit)

1時間作品です  
聞き応えあり、当時の状況 人びとの心境がよく分かる  すぐれた番組です

スライムスライムスライム
かめのこの、ささやかなブログではありますが、歴史に忠実にと願っています。記述に間違いがあったら教えてください。

宇和海に沈んだ紫電改のことは、第二次世界大戦史の一コマであります。

そこから大戦史、戦闘機のこと、軍艦、海軍の歴史などなどをながめると膨大な情報量になります。そのあたりは専門家に任せたいと思います。

第二次世界大戦時、命をかけて戦った人たちがいた
家族を守りたい、大事なひとを守りたい
敵には負けないと信じて戦った

優れた若い人たちが命を散らした

その歴史の上に、わたしたちが生きているということを覚えていたい



はぶあないすでい