“自分”と呼ぶすべてが、消えたあとに残るもの。

不死性を探求していた頃は、もしかしたらもう、一生涯がこの求めて苦しいままで終わるのかなと思っていた。
私というものが何なのかを探るということは、
私の“始まりと終わり”について考え続けるという、底無し沼にハマるようなものだった。

私の探求は、ずっとそんな感じだった。

10代の頃にはもう自然に探求は始まっていた。
少数ながら気の合う友人と、些細な出来事に笑い合ったり、おもしろおかしく日々を過ごしている風な日々にも、
どんなに親しくしている、確かな信頼をしている相手でも、
口に出来ないものが自分にはあった。

一つは家の中で起きていたこと。
それはどうしても周りとの温度差を感じてしまい、
話す相手に理解はしてもらえないだろう、だから話しても仕方がない。
という諦めだ。
一度、最も付き合いの長い女友達に、軽くさわりだけ、そういう話をしたことがある。
でも、やはりその友達にはその友達自身の持つ家族からイメージした“家庭”の目で判断するので、その温度差を説明することは、とても難しい。
だけど、たとえ打ち明け難いものを胸に秘めていたとしても
それは親しい友人関係に支障をきたすわけでもない。
友情や信頼は確かにあり続けていると、自分のなかで思っている。
時々、ふと薄氷のような壁に包まれている気がすることもあったけど、
こういう孤独感自体は、多かれ少なかれある事だろうと。

あと一つの、誰にも口に出来なかった…いやむしろ、あえて話題にしなかったこと。
それが精神世界の探求。
自己について、不死性について、真実についての探求。
今、こうして書いていて思うのは
自分が求めているものがハッキリとわからないまま、暗闇を手探りに、
確かに在り続ける何か、自分が世界から切り離された感覚、不揃いなパズルのピースみたいな分離感。
この居心地の悪さに隠れた、すべては真実にただ一体性だけがあるという、理屈じゃない直感。
それを自分自身で発見したかった。
学校生活を普通に送りながら。
部活帰りにマックで腹ごしらえしたり、時にはゲーセンではしゃいだり、プリクラの新台を試してみたり、授業中にルーズリーフの端切れなんかでやり取りした手紙は、膨大な量で。
そんな日常に、私の探求は心地良い毒のようにゆっくりと回っていた。
私の生活の隅々まで、深く。

そういえば、大人になってから
付き合いの長い友達と、待ち合わせがたまたま本屋になったとき、
私はお気に入りだった精神世界関連の本棚に居て、それを目にした友達がけっこう驚いていたのを思い出した。
へーっ、●●ちゃんってこういうの読むんだねって。
その時は思わずフフッそうなんよ~って自分も笑っちゃったけど、知り合って15年以上経つような友達でも、見せてない顔があるのって
もしかしたら不思議かもしれないな。

長くなってしまったけど、
子どもの頃から気付けば始まっていた探求から、
“不死性を求める苦しさ”が抜け落ちたことで、
以前より孤独を感じることが少なくなった気がする。
状況も何も変化はしてないし、すべてをさらけ出せる誰かが傍にいるわけでもない。
でも、そういうことに関係ない充足を感じている。




キンセンカを描いた。