
薩摩摩の腰差し鉄砲

薩摩の腰差し鉄砲をご存じたろうか。古くは朝鮮の役,泗川の戦いで10倍を超える明・朝鮮連合軍を撃破した島津勢の勝因は,鉄砲だった。島津義弘公記は,「この戦いにおいては大小の鉄砲いちじるしくその功を奏し,かつ己に腰指しの短筒をたずさえ,咫尺に倒すものあり」と記している。また,関ヶ原の戦いにおいても,薩摩の腰指し鉄砲は大活躍した。関ヶ原の合戦に西軍が敗れ、島津義弘が東軍の中央を突破して退却する時、追ってきた井伊直政や家康愛息の松平忠吉は,薩摩勢の銃弾で負傷した。さらには徳川四天王の一人,本多忠勝にも鉄砲を撃ちかけ落馬させ,退却戦を成功に導く原動力となった。この退却戦で薩摩勢は,徳川四天王のうち二人の狙撃にほぼほぼ成功したと言えるだろう。井伊直政は,この銃撃により二年後に亡くなっている。鉄砲玉による鉛中毒だっのかも知れない。
川上家伝来古銃
薩摩藩士柏木源藤が,井伊直政を狙撃した鉄砲
全長100センチ 口径2センチ
常山奇談は,その様子を「義弘の兵ども,種子島の鉄砲を腰に差したるを抜き出し,ひたひたと折しき,撃ちかけたるに,直正,忠吉ともに手負いて,それより物別れにしたりけり」と伝えている。
思うに薩摩の腰差し鉄砲というものは,馬上筒のような短めの鉄砲だけだったのではあるまい。雑兵物語に描かれているように,兵の移動時に,小口径の鉄砲を腰に差すのは,この時代の常識だったから,銃身の長い鉄砲もあったはずだ。それが,ことさら「薩摩の腰差し鉄砲」と世に喧伝されるようになったのは,薩摩藩が火力を重視し,多くの鉄砲と弾薬を装備していたからだろう。
雑兵物語
巷間言われるように「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」ではないが,有事に備えて多くの装備を保有することは,とても重要なことだ。例えばイージス艦を一隻造るのには,三年はかかるのである。核兵器を持たない選択をするのなら,なおさら防衛について真面目に考えなければならない。どこかの党のバァ~サンがヒステリックに平和を叫んだところで,それはご詠歌を歌ったっているのと何ら変わらず,とても無責任なことだと,私は思うのである。


