長篠コード6 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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長篠合戦図屏風は語る

信長は,武田の騎馬攻撃を極度に恐れていた。だからこそ,「馬防ぎの為の柵」 を構築したのである。               

火縄銃は,100メートル先の鎧を貫通できるほどの威力がある。しかし,連射が利かず次弾装填を完了させるまでには,熟練兵でも2530秒程度を要するという弱点も合わせ持っている。次弾装填中,銃兵は有効な反撃を行えず,敵からみればかっこうの獲物である。火縄銃は侵攻作戦よりも,次発装填を安全かつ確実に行なえる環境,つまり陣地や城砦のような身を隠せる防御戦に適した兵器なのである。信長は,それを熟知していたからこそ,最前線に馬防柵や身隠しを構築し陣地防御態勢を整え,火縄銃の集中運用により武田軍を撃破した後に,反転攻勢をかけるべく,積極的防御戦術を採用したのである。
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 画像提供 日本の武器兵器 https://blogs.yahoo.co.jp/japaneseweapons



信長公記は,巻八の「三州長篠御合戦の事」において,「馬防ぎの為,柵を付けさせられ」と記載している。信長は,武田家の騎馬突撃を非常に恐れていたのである。3年前の三方ヶ原合戦では,騎馬で敗走する家康を先回りした武田衆が襲撃したことを信長公記は記録している。これは,当時,織田家が,武田家の騎馬衆の威力を恐れていた一つの証左として挙げられよう。騎馬の突撃速度を時速25キロとすれば,100メートルを約15秒で駆け抜けることができる。これでは,火縄銃の装填中に前線を突き崩されてしまうことになる。信長は,これに対処するため馬防ぎの柵を取り付けさせたのである。
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織田家の戦闘教義の一つとして「野戦築城」が挙げられる。一例をあげれば信長が24歳の時の岩倉城攻囲戦では,城の周囲に鹿垣を三重四重に建てまわしている。また38歳の時の浅井攻めにあっては,虎御前山城と宮部要害を結ぶ道筋に5キロに渡って高さ1(3メートル)の塀を取り付けている。このように信長公記によれば,信長は若い頃から野戦築城を多用してきた。しかし,はっきりと「馬防ぎの為」と柵の構築目的を記しているのは,長篠の戦いだけなのである。信長が武田の騎馬兵を極度に恐れていたのは,明らかである。また信長は,騎馬突撃や火縄銃の利点や弱点を熟知していたからこそ,陣地防御戦術を選択したのである。
昨今,戦国時代には馬上戦闘は無かったとか,武田家の騎馬突撃について多くの疑問が呈されているところだが,西国はいざ知らず,少なくとも東国にあっては,敵陣の崩れや弱点に付け入る騎馬運用を否定するのは行き過ぎと感じるのは私だけだろうか。