自分が属している共同体と、そして個人も、当然大切ですよね。自分の自由にやりたいし、好きなことやりたいし。だけど、個人が好き勝手やっていたら、共同体は崩壊してしまう。逆に共同体の言いなりになってばかりいたら、個人は殺されてしまう。そのバランスがとっても難しい。

 どうやってバランスをとったらいいんだろうかっていうときにうまく折り合いをつけるっていうのが、道徳とか倫理とかの意味なんじゃないかな。

 共同体と個人と両方の価値を最大化する。「ここは個人のほうがちょっと抑える。だけど、ここは個人重視でいいかな」。そうやってグレーゾーンにおいて判断する気持ちが道徳心なんじゃないかなって思います。

 一方で、「社会規範」って言葉、聞いたことあるかな。いわゆる「ルール」みたいなね。これは、「こういう状況においては、こういうふうに振る舞うことが、この個人と共同体の両方の価値を最大とするうえでは都合がいいよ」って経験則的集合知なんですね。だけどこの「共同体と個人の関係」っていうのは、常に変化しているはずなんです。学校の中にいるときと、外に出たときと、共同体とみなさん個人の関係は、変わっているはずなんですね。そこにおいて、道徳の基準も変わっているはずなんです。一日の中でどんどん変わるし、空間が変われば変わるし、固定化できるものではないはず。

 とはいえ、毎回毎回判断していると間違うこともあるから、「最大公約数的な道徳に関してはルールにしちゃえ」っていうのが「社会規範」ね。いわゆる「出来合いの道徳」なんですよね。

 でも、これって、変化したものに対しては対応できなかったりするわけですよ。社会規範ありきでそのルールに従うことが目的になってしまうと、おかしなことが起こってくる。なので個別の状況によって判断できるようになるその判断能力こそが道徳心だったりするんですね。もしくは倫理観っていうかもしれない。先ほどの「生きる力」と「生きるスキル」の関係にも近いと思います。出来合いのものをインストールするのではなくて、その都度判断するということ、その能力こそが大事なんだよ。

 社会規範というのは、ちょっときつい言い方をすれば、社会から押し付けられるものなので、一部の人々にとってもしかしたら窮屈なのかもしれない。たとえば「電車の中で静かにしましょう」っていうルールは子連れにはきつい、とかね。そこにはやっぱりルールだけじゃなくて道徳心が必要なの。人目を気にせず大声で泣くことは、ある場面では社会規範いわゆるルールに照らせばダメなのかもしれないけど、赤ちゃんならしょうがないよね。そういう臨機応変な判断ができるかどうか。そういう道徳心が豊かになれば、世の中には多様性がもたらされるのね。道徳心がなくて、何でもかんでもルールに当てはめようとするから多様性が認められなくなってしまう。気遣いがなくなってしまう。

 

※2015年に山形東高校で全校生徒向けにお話しした内容のごく一部を抜粋。