急に雨が降り出して、私は近くの軒先に避難した。
仕事帰りの午後8時。
通りに人はまばらで、みんな慌てて走ってゆく。
ついてないなぁと吐いた息は、
冷たい雨の匂いの中、もわもわと白く揺れた。
ふいに、チリリン、と綺麗な音がした。
すぐ横のドアが開いて女の人が出てくる。
25、6歳くらいで、私とあんまり歳は変わらない。
でも穏やかに、楽しそうに笑っている。
「ありがとうございました」
閉まるドアの中から女の人の声が聞こえた。
ここはお店なのか。
改めて見てみると、
私の後ろの大きなガラス窓の向こうでは
古い飾り棚に色んなものが並んでいた。
水晶の玉に、原石。
天使や、羽の生えたユニコーンの置きもの。
ラベンダーのドライフラワー。
そして写真立てには、写真の代わりにこんな文章が。
「自分の人生の主人公になるには、
心にゆとりを思い出すこと。
ヒーリングと天然石、物語のお店
『time for hope』
店主 心のゆとりの魔法使いより」
……天然石と物語はまあ、いいとして、
ヒーリングって何だろう?
「魔法使い……」
昔は、私も憧れていた。
魔法が使えたならきっと、どんなに楽しい人生だろうって。
マンガやアニメの主人公みたいに、
素敵な人に囲まれて、色んな人に慕われて、
自分の好きな自分になれる。
誰かを救うヒーローにだって。
でも大人になった今、そんなの夢物語だと知ってしまった。
今日も仕事で上司に理不尽な難クセを付けられて。
必死でやってるのに、遅い遅いとなじられて。
上の言うことは絶対。
内心文句いいながら、言い返す度胸もない。
誰でもできるような仕事(らしい)も満足にできない、
決まりだから、と割り切れない。
私がおかしいのかな?
努力が足りない? 甘えてる?
毎日の生活に困ってはない。
世界にはもっと大変な人がいるってわかってる。
しにたい、とまでは行かない。
でも、なんとなく生きているのがつらい。
こんなに なんにもできなくて、
なんで私、なんのために毎日、生きてるんだろう。
この先私はどうなるんだろう。
いつまでこの生活が続くんだろう?
そう思うと足元が真っ暗になって、
心臓がぎゅっと絞られたみたいになる気がする。
チリリン、ともう一度ドアベルが鳴る。
その音で我に帰って顔を上げると、
お店の中から顔を出している女の人と目が合った。
「もしかして傘、もってないですか?」
私はびっくりして、返事ができなかった。
そんな私を見て悪戯っぽく笑ったその人は、
私とそっくりだったのだ。
でも目の前の彼女の方が、少しだけ年を重ねている気がする。
「もしかして未来の私……いや、すいません、そんなばかな」
「そんなばかが今起こっていますよ」
「ええぇ」
いや、わけがわからない。
なんでいきなりそんなファンタジーが起きているのか。
でも心臓がばくばくしているのは、
なにも驚きのせいだけではない。
正直、すごくわくわくしている。
「私、未来で魔法使いになってるの?」
「そうだね。
思ってる魔法使いとはちょっと違うかもしれないけど」
「どうやって?」
「なりたいのを認めて、自分で決めて行動したんだよ」
「そんなことで、私でもなれたの?」
「そんなことが今のあなたにとって、すごく難しいことじゃないの?」
高揚した気分が一気にぺしゃんこになってしまった。
まさにその通りだ。
「だって……そんなこと信じられないでしょ普通」
「まあそうかもね。でも、だからこうして来たんだよ」
暗い顔をしているだろう私の前で、
未来の私は楽しそうに笑った。
「あのころ、未来の自分が会いにきてくれたらなぁって思ってたから。
それが幸せそうな自分で、
そういえばそんなことで悩んでたよねって笑ってくれたら、
それだけで安心だなって」
「……いま、あなたは、幸せなの?」
彼女の笑顔を見ればわかるけれど、
確かな言葉で聞きたくて私は尋ねた。
「うん。しあわせだよ」
喉に何かが込み上げて、声にならずに、頬を熱いものが伝ってゆく。
胸の中にじんわりと安心が染み込んで、広がった。
「だーいじょぶ大丈夫。
雨がやんだらどこにだって行けるし、
降ってたって、傘があれば大丈夫。
心も人生もおんなじだから」
「……うん」
「でもとりあえず、寒いからお茶でも飲んでく?
どうする?」
「の、む!」
みっともなく泣きながら、私はその店のドアをくぐったのだった。
