旧森村家住宅
森村家は旗本駒井甲斐守朝温氏の地方(じかた)代官を務めた旧家である。2階建瓦葺入母屋造りの豪壮な主屋は養蚕をするため、2階に広い空間をとった職住一体の建物である。
伊勢崎藩陣屋遺構を一部移築し、明治9年(1876年)に増改築された。
↑ 伊勢崎市文化財指定書 森村家近年の三代 ↓
我が国の長い歴史の中で生まれ,はぐくまれ,今日まで守り伝えられてきた貴重な国民的財産です。
このため国は,文化財保護法に基づき重要なものを国宝,重要文化財,史跡,名勝,天然記念物等として指定,選定,登録します。
↑ 上の間 高崎白衣大観音像 ↓
森村酉三(もりむらとりぞう)
日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。
明治30年(1897)6月12日-昭和24年(1949)7月9日 享年52歳
2022年現在 生誕125年 没後73年。
酉三37歳昭和9年(1934)
高崎市観音山の高崎白衣大観音の原型像を制作。昭和11年(1936)建立、同年10月20日開眼供養。
↑ 森村酉三は「上毛かるた」にも詠まれている ↓
経歴
生い立ちから東京美術学校卒業まで
1897年、群馬県佐波郡宮郷村上連取(「つなとり」と読む。現在の伊勢崎市連取町)の名家森村総本家16代当主の森村連太の三男として生まれる。
酉三の名は酉年(同年は丁酉)に生まれたことにちなむ。幼い頃からさかんに粘土細工を作るなどしていたという。
↑ 台所に通じる廊下と柱 ↓
1910年、前橋中学校に入学するも2年後に校長排斥運動(ストライキ)を起こして退学処分を受ける。
兄らの奔走により当時県議でのちの衆議院議員・今井今助の推薦を得るなどして同県沼田中学校に再入学することができ、1917年春に同校を卒業。
一年後に上京して東京美術学校工芸部鋳金科に入学、香取秀真や津田信夫に師事する。1923年3月に同校を卒業。卒業制作は『経筒中子付』(学校買い上げ)。

↑ 廊下から見た蔵と庭 ↓
高崎観音山再開発と井上保三郎
美術学校卒業後の森村は池袋にアトリエを構え、本格的に創作活動を始める。郷土(群馬)の偉人の胸像の制作、一方で多くは動物をモチーフにした作品で帝展に連続入選するなど少しずつ美術界での地歩を固めていた森村のもとに、1929年、高崎市に本社を置く井上工業の社長井上保三郎らが訪れる。

↑ 玄関に通ずる廊下 裏座敷 ↓
「近代高崎建設の最大の功労者」 と言われ衆議院議員や初代高崎市長も務めた政治家・矢島八郎(1850~1921)の銅像制作の依頼であった。
翌年完成させた銅像は市内を見下ろす観音山の山頂に設置された(森村の制作したこの像は戦時中に供出され、現在は当時の台座の上に分部順治によって制作された矢島の像が建っている)。
2年後、再び井上保三郎が訪れる。井上はパリをモデルに観音山を近代的に再開発したいと考えており、その構想の中心的存在として前記矢島の像とともに「無名の国家功労者」への弔いの意も兼ねて、大観音像を建立してそれを据えたいと考えていた。井上はその原型制作を森村に依頼しに来たのであった。
井上は「私はセメント会社を経営していてコンクリートが豊富にある。これを何かに活かしたい。ついては私は観音様を信仰しており、あなたの手で立派な観音様をつくってもらいたい」と語りかけ、井上の熱意に打たれた森村は無料で制作することを約束したという。
こうして1934年に原型を完成させ、翌年に工事が着工、翌々年(1936年)竣工し同年10月開眼供養が行われた。当時としては世界最大の観音像であった。
人事興信録データベース(第4版 [大正4(1915)年1月] の情報

職業/株式會社伊勢崎銀行頭取、株式會社上毛貯蓄銀行、利根運河株式會社各取締役、日本共立生命保險株式會社相談役
性別/男性
生年月日/文久三年八月十五日 (1863)
親名・続柄 /森村門平の長男
家族
妻 みよ 慶應二、六生、群馬、平、椎名文吉郞長女
男 良策 明二〇、二生、慶應義塾法科出身
男 又郞 明二二、九生
男 三夫 明二七、四生
女 碓女 明三一、一二生
記述部分(略伝)
君は群馬縣平民森村門平の長男にして文久三年八月十五日を以て生れ明治十三年一月祖父京平の跡を相續す幼にして新井雀里翁の門に遊び漢學を修む明治二十三年以來群馬縣會議員に當選すること數次其間推されて常置委員となり縣政に貢獻する處尠からず現今前記諸會社の重役たり
家族は前記の外四男碓男(明三一、一二生)
四女直枝(同三四、七生)
五女瑞枝(同三八、七生)
五男得郞(同四五、四生)あり
弟鼎治(同四、一二生)は其妻なみ(同七、九生、埼玉、平、鵜殿三郞九長女)及其子を伴ひ分家し長女りか(同二四、五生)は東京府人酒井半十郞長男繁(醫學士)に嫁せり










