※参照→NHKニュース「平成27年度後期 連続テレビ小説「あさが来た」制作のお知らせ」
このモデルとなっているのは広岡浅子(1849‐1919)という女性で、日本女性での実業家としてはパイオニア的存在だといわれています。
おそらく、現政府の提唱している『女性が輝く社会』を具現化しているということもあるのかなって思っています。
おいたち
さて、この広岡浅子ですが、1849(嘉永2)年に京都にある名門商家・三井家の四女として生まれました。幼い時より花嫁修業である裁縫や琴、茶の湯よりも学問の方が興味がありました。
しかし、当時の商家の慣習として「女に学問はいらぬ」と禁じられてしまいます。
そして、17歳で大坂の豪商であった加島屋の次男だった広岡信五郎の元に嫁ぎましたが、手代に任せっきりの商家の慣習にこれまた違和感を覚え、独学で簿記と算術を学んでいました。
20歳の時に明治維新の混乱期を迎え、嫁ぎ先である加島屋が傾いたのを救うために夫とその弟と一緒に立て直そうとします。
1884(明治17)年頃から炭鉱事業に参画し、1888(明治21)年には加島銀行設立。続いて1902(明治35)年には大同生命を創業するなどして、加島屋は大阪でも有数の財閥となり、浅子も女性実業家としてその名を馳せることになりました。
事業だけではなく教育も
ほぼ同時期の1896(明治29)年に大阪の梅花女学校の校長だった成瀬仁蔵(1858‐1919)から彼の著書『女子教育論』を手渡されたことをキッカケに、女子高等教育機関設立の考えに大いに共鳴しました。そして金銭の寄付のみならず、成瀬と行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者となりました。
そのせいかもあって、広岡家からはもちろん、実家である三井家からも目白台にある土地を寄付するに至って1901(明治34)年に日本女子大学校(現 日本女子大学)設立に導きました。
その後、夫が1904(明治37)年に死去したのをキッカケに事業を女婿に譲って社会貢献事業に専念しました。主に婦人運動や廃娼運動(公に営業を許された娼・婦をなくす運動)に参加し、雑誌などに寄稿することで同性の啓発に努めました。
また、日本女子大学の設立されてからも女子教育には熱心でなくなる前年まで合宿勉強会を主催するほどでした。この学びの影響を受けたのが市川房枝や村岡花子だったそうです。
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こういうこともあってか、浅子には女神のようなカリスマ性に彩られた伝承が多いといいます。大柄で丸顔、でっぷり太った色白の浅子は、西洋の貴婦人のように洋装がよく似合い、気品にあふれていたそうです。「婦女新聞」には「(浅子は)尼将軍北条政子に近い方でしょう。まれに見る女丈夫でした」との人物評が出ていることもあったので、まさに女傑だったのかもしれませんね。
ちなみに
この朝ドラのベースになっているのは古川智映子の 「小説 土佐堀川」という小説だそうです。
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ただし、製作者側のコメントとして、これをアレンジした形にするということなので、本来の『広岡浅子』という姿からズレてしまうということもありえるというそうです。
