前回からの続き(5月18日のこと)で、平城宮跡の続きです
次は朱雀門から見て右手の施設側へ行ってみました
そこには以前阪奈道路を通ったときに、気になってたものがあり、それをやっと間近で見ることが出来ました
復元遣唐使船

こちらは施設側から船に桟橋が渡してあり、船に乗り込めるようになってました😄
いろんな所に解説もありました
遣唐使船の航路

遣唐使使節は、前期は北路、後期は南路(奈良時代ほぼ毎回)経由で海を渡り、唐の都長安を目指しました。
(以下、原文のまま)
遣唐使船後部



復原にあたって
遣唐使の資料は公式記録として残っていますが、その往復に使用した「船」に関してはほとんど資料がなく、どの位の大きさかを示す数字は残っていません。
大きさを推定する手掛かりとして、奈良時代の資料に約600人を4隻の船で派遣したとの記録があります。船の大きさが同じだったとすれば1隻あたり150人、航行中は何人かは起きているでしょうから、約100人が寝るために必要な面積を考えると、船の長さは 25m~30m、幅は長さの1/3~1/4程度として7~10mとなります。この大きさであれば、 150人分の水と食料や荷物などを積むのに十分な容積でしょう。
遣唐使船として教科書などに出ている絵は、大部分が「吉備大臣入唐絵詞」という絵巻物の絵ですが、この遣唐使船を描いた最も古い絵巻物は、最後の遣唐使派遣から 400年程あとになって描かれた絵です。その頃には宋の商人が博多に来ていましたから、 宋の船を参考に描いた可能性があります。しかし、実際に唐に派遣されていた時代の船の資料はありませんから、確かな根拠もなしに見慣れた船と違う船を造るのは避けて、 「吉備大臣入唐絵詞」と同じに見えるような船を造ってあります。
初期の遣唐使船はともかく、奈良時代の遣唐使船は2本の帆柱に網代帆を上げていたのは間違いないでしょう。なお「続日本紀」に百済船の建造の記録がありますので、 当時の百済船は優秀だったのでしょうが、それがどんな船だったのかも、残念ながらこれも資料が残っていないのです。
松木哲
過去の物を復元するとなると、なかなか大変なことが分かる話です😅
遣唐使船の諸元



いよいよ、乗り込みます

雑居部屋

現代の船旅では個室に寝泊りしていますが、18世紀頃には個室を持っていたのは船長くらいで、それ以外はお客さんでも大部屋で雑居でした。今でもフェリーには料金の安い大部屋でゴロ寝の客室があります。
遣唐使船の時代には、もちろんほとんどの人は甲板の下の積荷の間などで寝ていたのでしょう。
甲板の下に棚を吊って寝るようにしていたかもしれません。
甲板の下は屋形の中に空けた穴からの光だけで薄暗かったでしょう。留学生や留学僧といった人達は航海中は何もする事がありません。昼間は屋形の床に空けた明り取りの穴の周りに座り込み、木の実などをかじりながら議論していたのではないかと想像してしまいます。
碇(いかり)

碇は船が風や海流などで流されないようにするために海底に沈めるものです。ただ重いだけでは海底を滑ってしまいますから、 又木などの海底に食い込むような形の木に石を結びつけて碇にしました
現在では錨は鉄製が常識ですが、鉄は非常に高価でしたから中国では宋の時代になって鉄錨を使い始めており、日本では室町時代の頃から普及し始めました。
鉄の錨が普及し始めても木碇は近世まで使われ続け、元寇の際に台風で沈没した元の船の碇ではないかと言われる細長い碇石が北九州で発見されています。
重い碇は轆轤(ろくろ・巻上器)を使って甲板に持ち上げていました。
遣唐使船の積荷

日本からは唐の皇帝に献上する品として、水銀や水晶、真珠、 瑪瑙(めのう)などの宝石類、出火鉄(火打ち石で火を起こすためのもの)、 椿油や漆(うるし)といった日本各地から税として都に集まった貴重な品物が運ばれました。
持ち帰った品物としては、唐の皇帝から戴いた銅鏡や銀器、 瑠璃(ガラス) 杯や唐三彩(とうさんさい)、絹織物などのほかに、留学生や留学僧の持ち帰る書物、仏像、経典、さらに使節などの人達、 技術習得のために派遣された工人などが購入した品々があります。そのうち幾つかは「正倉院宝物」として現在でも見ることができます。
こうした物だけではなく、唐からは僧侶や彫刻師などの技術者、 遠くはペルシャの人も便乗して来日しました。
遣唐使船の航海

初期の遣唐使船は朝鮮半島に沿って航海しましたが、奈良時代には九州から揚子江の北あたりに向けて直行しました。
磁石も海図もない時代ですから、星や太陽を見て走り、陸地が見えるとどのあたりかを判断し、目的地に向かうような航海でした。
天気の予測も経験が頼りですから、途中で天候が急変して予想もしなかった所へ到着することもありますが、順調に走ればほぼ1週間で東シナ海を横断できました。
奈良時代に九州を出航した18隻のうち14隻は帰国しています。
帰り着かなかった船の乗員も一部は帰国していますから、 当時の航海技術を考えると特に危険な航海であったとは言えないかもしれません。


網代帆(あじろほ)上の画像のやつです↑

「吉備大臣入唐絵詞」には帆が描かれていませんが、他の絵巻物では遣唐使船には網代帆を描いています。網代帆は竹や葦を薄く削った物を平らに編んで作った網代を竹で縛って継ぎ合わせた帆です。
網代帆は堅い帆ですから意外に性能が良いのですが、風が編目から抜けるのと重いのが欠点です。中国では19世紀頃まで長い間使われ続けました。布の帆は風を受けると袋のようになりますので、布製が普及しても中国では帆に竹を結びつけて帆が袋のようになるのを防いでいました。
日本では網代帆を使わず藁を編んだ筵(むしろ)を継ぎ合わせた帆を使いましたが、遣唐使船や江戸時代の朱印船などの絵画では網代帆で描かれています。
賄い部屋

「吉備大臣入唐絵詞」などの遣唐使船の絵には、甲板の上に三つの屋形があります。船尾の屋形は遣唐大使の部屋として、真ん中の少し小型の屋形は竈(かまど)を据えて火を扱っていたのではないかと想像しています。
遣唐使船では航海中に何を食べていたのか正確な記録はありませんが、1日あたり干飯(ほしいい・ご飯を乾かしたもの) 1升と水 1升を支給した記述がありますから、これが主食でそれに何かの干物などを食べていたと考えられます。干飯に水をかけてもなかなか柔らかくなりません。多分お湯を沸かして皆に配ったのでしょう。
航海中に火事を出した記録もあります。夜に明かりを灯したのかもしれませんが、お湯位は沸かしたと思います。
櫓棚(ろだな)

遣唐使船は主に帆で走ったと思いますが、風が全く無くなった時や、陸地に近寄る時などには艪で漕いだはずです。
「吉備大臣入唐絵詞」には船体の外側に張り出した棚が描いてありますが、ここで艪を漕いだのです。この艪棚は国内の船を扱った中世の絵巻物にも描かれています。
艪棚の下には竹の束が取り付けてありますが、「吉備大臣入唐絵詞」にそれらしい物が描いてあるので、同様に復原しました。正確な用途は分かりません。
艪棚は艪など長い物の置き場所にもなります。もしかしたら、 ここがトイレを兼ねていたのかもしれません。
後ろ側へ向かってます

遣唐使船の構造

奈良時代の日本国内で使用していたと考えられる、丸木舟に板を継ぎ足した「準構造船」では、とても100人を越える人を乗せて東シナ海を横断する数十日の航海ができるような大型の船は造れなかったと思います。また細長い丸木船では、大きな帆を上げて走ると転覆の危険があります。
遣唐使船は、おそらく厚い外板の内側に仕切り板のような補強材か、左右の外板をつなぐ梁を入れた「構造船」だったと考えています。
百済船を使用したような記録がありますから、遣唐使派遣のために百済船を建造したのでしょう。百済船はそのような 「構造船」だったのではないかと思います。
主舵(しゅだ)

船の中央には舵(かじ)があります。甲板上の通行の邪魔になるので舵柄(かじつか)を取り外して置いてありますが、本来は舵柄を舵の頭に差し込んて数人掛りで舵を取りました。
この船では水面から下は作ってありませんが、舵は舵効きを良くするために船体よりも下に突き出ていますから、浅い所では舵が海に当たらないように少し巻き上げる必要がありました。
風が強くなって船が傾くと、船尾が持ち上がって舵が浅くなって舵効きが悪くなりますから、両舷に小型の舵を取り付けて使うことがあります。現在でも東南アジアの船などは両舷の舵だけを使っています。船尾の中央に舵を取り付けたのは中国の発明であるという説もあります。
船の下側の構造がこれ

今度は反対側に回ります

遣唐大使の部屋

帆船では船尾に近い所に位の高い人の部屋を設けていました。
遣唐使船でも、三つある屋形の一番後ろの屋形が遣唐大使の居室だったのではないかと思います。大使は高位の貴族であったため、大使だけは一人で一つの居室を使っていたでしょう。
ただし、三つの屋形とも甲板の下に空気や光を入れるため甲板を大きく切り抜いていたはずですから、少なくとも昼間は明り取りのために蓋を開けていたに違いありません。そう考えるとたいして広かったとは言えないかも知れません。
絵巻物ではこの上に太鼓を描いている絵があります。艪を漕ぐ時に太鼓を叩いて合図したのでしょう。頭の上で太鼓を叩かれてはと少々気の毒になります。
偉い人だから個室だとしても、上で太鼓叩かれたら大変ですよね!?😅
施設側から見てみます

平城宮跡のこと続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ

