前回からの続き(3月29日のこと)で、京都御苑の続きです

近衛邸跡から猿ヶ辻を曲がり、下って(南下して)行くと、左手に林の中に駒札があったので行ってみました😁

この様に駒札と2つありました指差し

皇女和宮生誕の地(橋本家跡)
住所・京都市上京区京都御苑23

駒札
橋本家跡
  1846(弘化3)年、孝明天皇の妹和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんおう)誕生の地といわれています。和宮は、橋本実久(さねひさ)の娘典侍(ないしのすけ)の経子(つねこ)を母として生まれ、十四年間この橋本家で養育されました。公武合体政策を進めるため、当初の有栖川宮熾仁(ありすがわのみやなるひと)親王との婚約は破棄され、十四代将軍徳川家茂へ嫁ぐこととなりました。明治維新後、和宮は徳川慶喜の助命にも尽カしました。1877(明治10)年、療養先の箱根で没し、増上寺の徳川家茂の墓に並んに葬られました。
(原文のまま)
和宮(かずのみや)
1846.5.10〜1877.9.2
第十四代将軍徳川家茂(いえもち)の正室
和宮の誕生時、父の仁孝天皇はすでに崩御され、外祖父にあたる橋本実久の下で養育される

嘉永4(1851)年、6歳で有栖川宮熾仁親王と婚約

勅許を待たずに調印された日米修交通商条約で悪化した朝幕関係修復のため、公武合体策として皇女降嫁の議が起こる

初めは拒絶した孝明天皇も再三の奏上に、やがて攘夷実行を条件に勅許

和宮もやむなく承諾、婚約解消となる

文久2(1862)年2月、婚礼の儀

当初は家茂の養母で姑のてんしょういんとの間で心労も絶えなかったが、その後穏やかになっていったという

慶応2(1866)年7月、家茂が遠征先の大阪で急逝

数日後、兄である孝明天皇も崩御

戊辰戦争が起こると、徳川家の存続を第一に、徳川慶喜の助命、新政府軍の江戸進撃の中止を嘆願する

明治2(1869)年から同7(1874)年まで京都に帰住

再び東京に戻るも、明治10(1877)年9月、療養先の箱根で薨去

(幕末維新人物事典参照)


時代祭での和宮の衣裳
幕末の悲劇のヒロインとして描かれる人物の1人ではないでしょうか!?
そんな人物に纏わる場所が御苑にありましたひらめき
この日のこと続きます

ちなみに、昨日の昼はアメンバーにするつもりが普通にアップしてました😂
身バレする話しとかじゃないから、まあいいんですが😅
いいねが付いていて気づきました🤣
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ