前回からの続き(1月11日のこと)です
竹屋町通りを西へ歩いて行くと、美福通りへ突き当たります(竹屋町通りは続きます)
その交差点の角に公園があります
二条公園

住所・京都市上京区主税町91
駐車場・なし
こちらには気になってたものがあったのでやって来ましたが、ここも史跡だったようです
入り口に解説がありました

解説

二条公園に眠る遺跡-平安宮跡・京都所司代跡-
現在の二条公園のある場所は、今から約1,200年前の平安時代、政治の中心であり、天皇の住まいでもあった平安宮の一角でした。平安宮の中には、様々な役所が集中していましたが、この場所には太政官と宮内省がありました(図1)。太政官は行政の最高機関で、他のほとんどの役所をその管轄下におきました。また、平安宮の中心施設である大極殿の代わりとしても使われ、平安時代後期から末期の後三条天皇や後鳥羽天皇は、本来大極殿でおこなう即位式をこの太政官でおこなっています。宮内省は天皇や皇族の衣食住のほとんどを担当した役所です。平安時代、二条公園を含む一帯には、特に重要な役所がおかれていました。
平成14年に二条公開の中で実施した発掘調査では、宮内省の西側を区切る築地塀(上を積み重ねて作った堀)の痕跡を確認し、平安時代前期(約1.200年前)の土器や瓦が出土しました(写真1)
江戸時代の二条城の周りには、西日本の政治をおこなうために江戸幕府が任命した京都所司代の屋敷が造られました(図2)。二条城の北側に上屋敷、中屋敷、下屋敷の3つの屋敷が設置され、所司代は上屋敷に住み、役所としてもこの上屋敷が使われました。二条公園は下屋敷が置かれた場所の一部に当たります。下屋敷は千本通に面していたため、千本屋敷とも呼ばれていました。 この下屋敷には、所司代の家臣や所司代付の足軽の家族が暮らしていました。 その大きさは二条城よりもひとまわり小さいとはいえ広大であり、多くの武士がいたことが推測できます。昭和56年に二条公園内でおこなった発掘調査では、 江戸時代の幅4.5mの濠跡が見つかっており、この下屋敷に関連する可能性があります(写真2)。
二条公園の場所は、平安時代にも、江戸時代にも政治の中心地であり、現在でも地中にはその遺構が残されています。
二条公園の場所は、平安時代にも、江戸時代にも政治の中心地であり、現在でも地中にはその遺構が残されています。
(原文のまま)

公園に入って行くと、桜が咲いていました

解説

ジュウガツザクラ
【十月桜】
マメザクラとエドヒガンの栽培品種で二季咲きのコヒガンの中で、八重咲きのものを'十月桜´として分類。江戸時代後期から広く栽培されていたと思われる。
●樹高:3~6m.
●花期:10~12月と翌年3~ 4月にも咲く、花は白色もしくは淡桃色で3~5個が散房状または散形状につく。
●花径:28~38㎜
●花弁数:10~16枚で楕円形で先は切れ込む。木は小型で家庭の庭にも向くので、各地で栽培される。
バラ科サクラ属
(原文のまま)
公園を北へ向かいます
すると、水路のようなものがあり

その先に目的の場所がありました

解説

鵺(ぬえ)池伝説(説明)
二条公園の北側には鶴池という小さな池がありました。傍らには不鮮明ですが鶴池碑と書かれた石碑があり、 さらにその北側には鶴大明神の詞があり、そこには新しく復元された碑が建っています。
平安時代、二条公園を含む付近一帯は、天皇の住まいである内裏や、現在の国会議事堂に当たる大極殿を正殿とする朝堂院、そして今の内閣に相当する太政官など、国家政治の中心となる官庁街でした。
『平家物語』巻4によると、院政期とも呼ばれる平安時代後期、深夜、天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に伝えられた。そこで弓の名手である源頼政が射落とした怪鳥は、頭は猿、 胴は狸、手足は虎、尾は蛇という姿の鵺(鵼とも書く)であったといい。そのときに血の着いた謎を洗ったのが、 この(鵺池)だと伝えられています。
この度の再整備において池・流れ施設整備し、鶴池碑を移設しました。
(原文のまま、一部補足)
画像をアップで

鵺池碑

頼政が鵺を退治した時に使ったと言われる鏃が納められた神社も市内にあります
この日のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ

