前回からの続き(1月11日のこと)です
押小路通りへ戻り、西へ進みます
釜座通りとの交差点の右側(画像は西から撮ったもの)に石碑と今回は駒札もありました
東三条殿址

住所・京都市中京区押小路通釜座西北角
東三条院址 (とうさんじょういんし)
東三条院の址はこの辺りを中心として、二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130メートル、南北約280メートルに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。
はじめ醍醐天皇皇子重明(しげあきら)親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房(よしふさ)が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。藤原兼家(東三条殿と称した) の姉娘超子は冷泉天皇の女御(にょうご)となって三条天皇を、妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇を、それぞれここで産んでいる。殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家して東三条院と称した。
はじめ醍醐天皇皇子重明(しげあきら)親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房(よしふさ)が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。藤原兼家(東三条殿と称した) の姉娘超子は冷泉天皇の女御(にょうご)となって三条天皇を、妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇を、それぞれここで産んでいる。殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家して東三条院と称した。
その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、邸内は尊美を極め、庭内池にけ竜頭船を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた、その華やかな様は「本朝文料(ほんちょうもんずい)」にも記されているが、邸は安元3年(1177)に火災で焼失した。
京都市
(原文のまま)
ちなみに、「光る君へ」で兼家と言えば
ドラマで描かれた東三条殿の画像もありました
正面から

下の方が補強されている感じです😅
この日のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ



