前回からの続き(1月11日のこと)です

次の目的地だったのは京の冬の旅で公開していた六角堂(頂法寺)
公開してた内容は先にアップしています
なので、今回は以前にも訪れていますが、改めて境内のことや初めてエレベーターから見た六角堂のことを書きます

六角通り面した山門から入って行きます

駒札
六角堂
  紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。
  開基は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁13年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳2年(996)には花山法皇の御幸があり、西国三十三所観音霊場(現十八香の札所)となったと伝えられる。建仁元年(1201)、親鸞聖人が当寺に100箇日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。
  本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。本堂前の六角形の礎石は臍(へそ)石といい、古来、京都の中心に当たるとされてきた。
  また、本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した所で、華道発祥の地として有名である。現在も池坊華道の拠点となっている。
  京都市
(原文のまま)

六角堂由緒
流石にこれは文字起こしすると長くなるので割愛します🤣

本堂
本堂は明治10(1877)年に再建されたものだそうです
正面に拝堂が付属したもの
(六角堂HP参照)

へそ石
へそ石
桓武天皇の延暦12年(793)長岡京より平安京へ遷都の時、六角堂の所在が道路の中央に当たったため天皇が遷座を祈願されたところ御堂が自ら5丈 (約15m)ばかり北へ退かれたという。この石はその際に取り残された礎石であると伝える。
六角堂は下京の町衆の寄合の場であり場所も京都のほぼ中央に当たることから人体にたとえて「へそ石」とも「要石」とも呼ばれている。祇園祭の山鉾巡行の順番を決める「籤取り式」も江戸末期まで六角堂において行われていた。
当時は六角通りの中央にあったが、明治期境内に移された。
(原文のまま)
へそ石が京都の中心に当たるということは本で読んだことがありましたが、移動したという伝説の話は読んでいたかもしれないですが、忘れてしまってました😅

アップで



こんな生花の像?とかもあります
やはり生花発祥の地だからでしょうか!?🤔

この頃、テレビで六角堂の紹介をしていて、下から六角に見えるとこを映していたのでそれを探してウロウロ🤣

池にある太子堂
六角堂を創建した聖徳太子が祀られています
またの名を開山堂
(六角堂HP参照)

池には白鳥が飼われています指差し

角度を変えてウロウロ😂

境内には区民の誇りの木イブキ

スタバがある前には石像いっぱい

スタバ側へ回ると、石像の裏は土手のようになっていてこんな感じになってましたびっくり

で、今まで六角堂へ来たことはあるも、上から見てみたくてもその場所が分からなかったんですよね😅
スタバが入ってるビルの入り口入ってすぐ左のエレベーターがその見える所でした
↑これです
展望台がある訳でなく、エレベーターから動きながら見るんでしたあんぐり
割りと早いから撮りづらい😅

そんな撮影したものを



やはり上から見た方が六角の形が分かりよかったですニコニコ

そのスタバが入ってるビルを烏丸通りから見るとこちらがそれ

烏丸通りから六角通りへ入った右手に、六角堂の鐘楼がありましたびっくり

駒札

鐘楼堂
  六角通りを隔て 飛地境内にあり 慶長10年(1605)豊太閣の臣 堀尾吉晴の嫡男 忠氏(ただうじ)が寄進 当時は一向宗による一向一揆 加茂川洪水や大火の際にこの鐘をついて 急を市民に知らせたと云う
  この鐘は 天明の大火で焼失  天保11年(1840)再鋳するも 第二次大戦に献納された 現存のものは昭和29年に再鋳復元 銘文は天保年間のものによる
古銘に曰く
花外 蒲牢の響き 長安 半夜の天
撃つ人は盛徳を輝かし 聞く者は名纏(めいてん)を解く
朝に遠山の碧を渉り 暮に街市の烟(けむり)にむせぶ
観音妙智力 寿 幾千年か算えん
慶長拾乙巳の年 春季 如意珠の日
頂法寺化鐘
六角堂 頂法寺
(原文のまま)

アップで

この日のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ