前回からの続き(1月2日のこと)で、大河ドラマ館のことです
4Kシアター(撮影禁止)を過ぎると、大きな平安時代の宇治の俯瞰図が展示されていました


アップ

その横にはその俯瞰図の解説もありました
藤原道長の頃の宇治(想像図)

道長の時代の宇治(西暦1000~1020年頃)が、どのような景観にあったのかは、自然景観は別にして、実のところよくわかっていません。史料が少なく謎が多い時代なのです。今回の復元イラストは、この謎に挑戦したもので、宇治市の発掘調査成果をもとに今までとは違ういくつかの新しい景観を書き込んでいます。
まず、①宇治川は現在の宇治橋下流でいくつかに分流し巨椋池に同化していました。②川中には網代が設けられ、 夏には鵜飼も行われていました。③宇治津もこの辺りにありました。④宇治川の先にはたくさんの島があり、人々の暮らしもありました。槇島もその一つです。⑤このころ宇治橋は、上流の浮島十三重石塔あたりに架けられていたと考えられます。⑥本町通り(奈良街道)が真っ直ぐ橋まで伸びていました。道筋には町家や神社などが建ち庶民の生活がありました。現在の宇治橋通りはこれより300年ほど後に作られたことが分かっています。
⑦この橋の西岸北側に道長の宇治別業がありました。平等院の場所です。川岸の現在の観音堂あたりに寝殿が作られていました。建物の形はこの寝殿を転用した平等院本堂の形を資料から復元しています。園池は鳳凰堂が立つ阿字池と同じです。⑧対岸には離宮社があります。史料から付近に別業があったことが分かります。⑨宇治の市街地にも別業の存在が発掘からわかっています。その周りには、使用人たちの家や庶民の暮らしがあったと思います。⑩本町通りの西の端には一之坂があります。宇治の西の境とされる場所です。
イラスト担当者コメント
平安初期の宇治…全くの未知の世界です。原図を元に、鳥の目になって眺めたイメージで描きました。表現しきれていないところも多々ありますが、そこは自由に想像しながら見ていただければ幸いです。
(原文のまま)
画像をアップで

大きな俯瞰図の横はこっちが先でした
便宜上、俯瞰図の解説を先にしましたが😅
奈良と京都を結ぶ宇治

大化2年(646)に宇治橋が架けられた記録が残るなど、藤原摂関家によって都市として整備される前からすでに宇治は京都と奈良を結ぶ交通の重要地点でした。宇治は琵琶湖から流れ出した瀬田川が宇治川となり急峻な山間部から平野部に流れ出る扇状地に位置します。
かつては京都盆地の南部をふさぐように巨椋池の湖沼が広がり、京都という空間の南の自然境界となっていました。宇治はその端に位置し、京都盆地の南東端の境界に造られた都市といえます。京を取り巻く文化圏としても宇治(南東)、比叡山(北東)、愛宕山(北西)、石清水八幡宮(南西)が大きな枠組みとしてとらえられていたと考えられます。
(原文のまま)
宇治の日々

宇治への道
土御門殿から宇治殿までは約22キロの距離でした。宇治への行き方は、通常、京都と奈良を結ぶ宇治道(奈良街道)を利用し、 京都から大和大路を南下し、木幡山を越えて木幡、そして宇治というルートでした。 牛車で半日程度の距離です。
道長は舟をよく利用し、鴨川から巨椋池を経て宇治川へというルートで向かい、10時間近くかかったこともあったようです。
道長は舟をよく利用し、鴨川から巨椋池を経て宇治川へというルートで向かい、10時間近くかかったこともあったようです。
宇治での遊び
道長は、春日社や高野山の参詣の帰りに、宇治殿で同行の妻倫子や貴族たちと遊宴を楽しみましたが、ことに秋の宇治が気に入っていたらしく、 9・10月に貴族たちと宇治を訪れることが多かったようです。
舟を使う場合は、舟の上から管弦や歌を詠じ、そのまま宇治殿で遊宴が行われました。また、宇治の紅葉を舟で楽しむことも多くありました。
舟を使う場合は、舟の上から管弦や歌を詠じ、そのまま宇治殿で遊宴が行われました。また、宇治の紅葉を舟で楽しむことも多くありました。
(原文のまま)
光る君へでの宇治と言うと、やはりこのシーンとか思い出してしまうのではないでしょうか!?
道長の暮らした屋敷

土御門殿
道長の栄華を代表する邸宅が王御殿です。妻倫子の父源雅信の邸宅を受け継ぎ、京極殿、上東門殿とも呼ばれました。道長の娘彰子が後一条天皇と後朱雀天皇を、嬉子が後冷泉天皇をここの寝殿で出産します。
道長が望月の歌を詠じたのは東対(ひがしのたい)。寝殿と東対とむすぶ渡殿に紫式部の部屋がありました。屋敷の場所は、現在の京都大宮御所北あたりです。
宇治殿
宇治殿は道長の宇治の別荘で『源氏物語』宇治 十帖の夕霧の別荘のモデルとされています。屋敷の場所は現在の平等院と重なります。
この場所には、平安遷都後ほどなく皇族関係の 別荘が建てられ、道長がその別荘を入手しました。 宇治川に面して寝殿が建てられ、平等院阿字池は この別荘時代の園地を踏襲しているとされます。
永承七年(1052)に道長の息子頼通により平等院 へと改修されました。
この場所には、平安遷都後ほどなく皇族関係の 別荘が建てられ、道長がその別荘を入手しました。 宇治川に面して寝殿が建てられ、平等院阿字池は この別荘時代の園地を踏襲しているとされます。
永承七年(1052)に道長の息子頼通により平等院 へと改修されました。
東三条殿
藤原摂関家当主の京内主要邸宅。
二条城の東側の中京区上松屋町辺りにありました。
(原文のまま)
道長の祈り

病気に悩まされた道長
道長は華やかさとは裏腹に、若いころから病気 がちでした。30代後半からたびたび大病を患い、 40代を過ぎると意識を失うなど深刻な症状がみられ、死を意識するようになります。
「望月の歌」を詠じた53歳の頃は咳が絶えず目もかすんでいたらしく、糖尿病と考えられています。このためか、仏教への信仰が篤く、吉野金峯山に自ら登り経典を理納したり、自宅や寺院で法会などを頻繁に行いました。病状の悪化から54歳で出家し、仏国土を彷彿とさせる法成寺を建立し 62歳の時にここで亡くなります。
「望月の歌」を詠じた53歳の頃は咳が絶えず目もかすんでいたらしく、糖尿病と考えられています。このためか、仏教への信仰が篤く、吉野金峯山に自ら登り経典を理納したり、自宅や寺院で法会などを頻繁に行いました。病状の悪化から54歳で出家し、仏国土を彷彿とさせる法成寺を建立し 62歳の時にここで亡くなります。
宇治に葬られた藤原氏の人々
平安時代、宇治の北木幡地区に藤原氏の墓所が設けられます。最初の墓は藤原北家隆盛の基礎を築いた基経とされます。その後、道長が木幡に浄妙寺を建立してからは、道長一門の墓は木幡に集中して造られます。
藤原氏出身の后妃たちも、当時の習慣として墓 は父方に戻されたため、彰子なども木幡に葬られています。現在の宇治陵は明治時代に定められたものです。
藤原氏出身の后妃たちも、当時の習慣として墓 は父方に戻されたため、彰子なども木幡に葬られています。現在の宇治陵は明治時代に定められたものです。
(原文のまま)
反対側の展示

道長が建立したふたつの寺院
浄妙寺

道長が木幡に建立した、藤原一門の冥福を祈る寺。
陰陽師安倍晴明・賀茂光栄(かものみつよし)により堂舎の位置が占われ、寛弘2年(1005)に普賢菩薩を本尊とした法華三昧堂が、2年後に多宝塔が完成しました。完成供養の法会には、道長以下、息子頼通、娘彰子をはじめ多数の貴族が参会します。
建立の意図は、父兼家と木幡を訪れた際、先祖の墓が荒れていたため、立身したら先祖供養のために寺を建てると誓ったことによるとされます。宇治市立木幡小学校がその跡地。藤原一門の墓所はこの寺の東側丘陵一帯にあたります。
法成寺

法成寺は道長が自身の邸宅土御門殿の東隣りに寛仁4年(1020)に建立しました。彼の住居無量寿院阿弥陀堂に始まり、2年後に巨大な寺院へと拡大します。伽藍中央に園池を持ち、40余体の丈六以上の仏像が安置されます。
仏国土を再現した寺であり、平等院へと続いてゆきます。道長は万寿4年(1027)にこの阿弥陀堂で亡くなりました。現在の京都大宮御所東側がその跡地です。
(原文のまま)
道長か眠る場所(浄妙寺跡)

道長の墓
晩年、病に侵され苦しみ続けた道長が、法成寺阿弥陀堂で亡くなったのは、万寿4年(1027)12月4日未明のことでした。雪の7日、 鳥部野で荼毘に付され、収骨された骨は壺に入れられ、家司や僧によって木幡へと運ばれます。この時、慣例により近親者は同行しません。
当時の墓は、直径数メートルの塚に骨壺を収めたもので、 周囲を柵で囲っていました。この35年後、71歳の息子頼通が道道の墓を訪ねています。 彼は、衣冠束帯姿で浄妙寺の南大門前から川沿いに東に向かい、墓守に案内されて丘陵部に造営された父道長の墓の前で礼拝をしています。
この記録によれば、道長の墓は木幡小学校東側の丘陵部にあることとなります。おそらく、息子頼通も彰子もその近くに葬られていると考え られます。
(原文のまま)当時の墓は、直径数メートルの塚に骨壺を収めたもので、 周囲を柵で囲っていました。この35年後、71歳の息子頼通が道道の墓を訪ねています。 彼は、衣冠束帯姿で浄妙寺の南大門前から川沿いに東に向かい、墓守に案内されて丘陵部に造営された父道長の墓の前で礼拝をしています。
この記録によれば、道長の墓は木幡小学校東側の丘陵部にあることとなります。おそらく、息子頼通も彰子もその近くに葬られていると考え られます。
その先には平安時代の暮らしを体感するというコーナー

十二単(じゅうにひとえ)の話







十二単の歴史
奈良時代の後期に着物の原型が生まれたと言われ、平安時代により現代に近い着物が生まれました。
十二単は平安時代の中期に完成した女房装束の儀服です。
女装束の代表格・十二単は、成人女性の正装です。
宮中などの公の場所で晴れの装いとして着用されました。着用するときも限られ ていて、宮中の儀式など、公家女房の晴れの装いとして用いられました。現在では御即位の大礼の儀、皇族妃の御成婚の儀に用いられます。
十二単は平安時代の中期に完成した女房装束の儀服です。
女装束の代表格・十二単は、成人女性の正装です。
宮中などの公の場所で晴れの装いとして着用されました。着用するときも限られ ていて、宮中の儀式など、公家女房の晴れの装いとして用いられました。現在では御即位の大礼の儀、皇族妃の御成婚の儀に用いられます。
十二単の構成
全体の構成は、「唐衣(からぎぬ)・表着(うわぎ)・打衣(うちぎぬ)・五衣(いつつぎぬ)・単衣(ひとえ)・長袴(ながばかま)・裳(も)からなり、髪型は大垂髪(おすべらかし)が基本です。手には檜扇をお持ちになり ます。
(原文のまま)
その先にはお香の展示がありました

お香の原料

解説

お香の原料
お香の原料として使用される天然香料には数十種類あり、天然のものだけに入手困難なものも少なくあり ません。これらは、中国やインド、東南アジアを中心に産出されます。中には、香辛料や漢方薬として親しまれ ているものも多くあります。
(原文のまま)
その本物?も展示されていました

その反対側にはこんなルーレットがあって、名所めぐり

この先に出演者のサインが多く展示(撮影禁止)してあり、それが最後で出口となりました
思ってたよりそんな広くはなかったですが、しばしの間大河ドラマが身近に感じれて、1年楽しんだ者からしたら面白かったです😊
こちらは来週で終わってしまいますが、宇治にはたくさんの有名な寺社(主にお寺ですが)がありますので、やはり有名なお茶と合わせて歴史が感じながら楽しめる所だと思います
有名なところだと以下のものがあります
三室戸寺(西国霊場) 萬福寺(国宝)
この日の他のことは、また時系列でアップしていきたいと思います😌
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ






