前回からの続き(3月13日のこと)です

今回は京都市考古資料館の常設展のことになります

常設展は京都市の原始時代の頃からのことが紹介されています

陶器の紹介

ここから順に年代順となっています

原始時代の京都(〜A.D250頃)
 数万年前の後期旧石器時代から、京都盆地にも石の道具を使った人々がいた。市内各所からナイフ形石器や石器を作るときにできた破片や石屑が見つかっている。 
 縄文時代には食べ物の煮炊きや貯蔵に土器が使用されるようになり、 生活が向上するとともに定住がすすんだ。北白川遺跡群は代表的な遺跡である。北白川上終町(かみはてちょう)遺跡の縄文時代早期の竪穴住居はその端緒であ る。また、縄文時代晩期には土器を棺に使用した墓も作られた。土偶などの出土品からも精神世界をうかがうことができる。近年では西山の麓で上里(かみさと)遺跡などの縄文時代の遺跡が次々と見つかっている。縄文人の痕跡は意外なほど濃密である。  
  弥生時代には農耕が生業の中心を占めるようになる。京都で一番古い弥生土器が見つかった下鳥羽遺跡をはじめとして、京都盆地中央部に 数々の集落が形成された。また、新しく伝わった鉄製の道具が使用され るようになり、石製品・木製品も大きく変化した。やがて社会の変化がすすみ、支配するものと支配されるものとの格差が生まれてくるのもこ の時代である。
(以下も全て緑色の部分は原文のまま)

先土器時代の遺跡
  獣を追ってくらした先土器時代の人々は、山地や丘陵の上にすまいをかまえ、盆地を囲む山々や水辺で狩りをつづけた。

縄文時代の遺跡
  めぐまれた自然環境の中で、縄文時代の人々は鳥獣を追い、魚貝をとり、また木の実などを採取してくらした。生活の場も、前代よりは、はるかにひがっている。

弥生時代の遺跡
  稲作がはじまると、村々は一斉に平野へ進出する。大小河川の流域にできた自然堤防上は、ほとんど弥生時代の村跡であるといってよい。

それらの土器など

山背の豪族たち(A.D250頃〜784)
 ヤマト政権の成長にともない、京都盆地でも首長たちの古墳が次々と築かれるようになる。天皇の杜古墳は整った形をとどめる古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘は葺石や埴輪で飾られていた。この頃の副葬品は銅鏡や玉、鉄製の武器が中心である。 
  古墳時代後期は大きな石材を用いる横穴式石室が特徴で、封土を失い石室が露出した蛇塚古墳は、代表的な首長墓である。一方、山間部には大枝山古墳群醍醐古墳群などの規模の小さな石室を備える群集墳が営まれた。石室からは遺体が身に付けていた金環(きんかん)などの装身具や多量の須恵器が出土する。  
 また、この時期には朝鮮半島からの渡来人により、治水工事や大規模な造成工事に不可欠な土木技術や養蚕(ようさん)・須恵器生産など、すすんだ文化や技術がもたらされた。中でも秦氏は大きな役割を果たした。
 飛鳥・奈良時代になると、京都盆地も律令制のしくみに組み込まれ山背(しましろ)国となる。古墳の築造は終焉を迎え、仏教の興隆に合わせて盆地の各所には次々と寺院が建立された。寺院の屋根には意匠豊かな瓦が葺かれていた。

京都盆地の古代豪族
これを見ると、どの辺りに豪族が分布していたのか分かります指差し

長岡京や平安京に関するコーナー


長岡京の造営(A.D784〜794)
 長岡京は向日丘陵から桂川に向けて拡がる緩やかな傾斜地に造営された、新しい都では、桓武天皇の指導のもと政治の刷新が目指されたが、 わずか10年間の短命の都に終わる。
 発掘調査では、長岡宮はもとより居住に適した場所を選んで、京域の広い範囲に道路や宅地が整備され、精力的な都づくりがすすめられていた様子が明らかになってきている。

平安の新京(A.D794〜1185)
 平安京は律令国家が建設した最後の都城(とじょう)である。北辺中央には平安宮が位置し、儀礼や政務の場としての大極殿・朝堂院、裏宴の場としての豊楽院、天皇の住まいである内裏を中心に、政務を支える役所が集約された。 
  平安京域には、朱雀大路を中心街路として、東西・南北の大路・小路により碁盤目状の街区が整備された。現在の区役所にあたる京職(きょうしき)、外国からの使節を迎える鴻驢館(こうろかん)、官営の市、東寺・西寺などが造られた。また、貴族には広大な敷地が与えられ、雅やかな苑池を備える邸宅もあった。その 一方で、庶民は狭い宅地でささやかなながらも、力強く生活を繰り広げていた。遺跡からは多種多様な遺物が出土しており、平安京に暮らしたさまざまな階層の人々の生活をうかがい知ることができる。 
  平安時代後期になると、右京域は徐々に衰退、市街地は左京城が中核となり、小規模な町屋も見られるようになった。また、鴨東(おうとう)の白河殿、法住寺殿や洛南の鳥羽殿には、上皇の権勢のもと、大規模な寺院や殿舎とともに広大な苑池が造営された。

宮都のうつりかわり
1.飛鳥板蓋宮     643年
2.大津宮             667年
3.飛鳥浄御原宮 673年
4.難波京             682年
5.藤原京             694年
6.平城京             710年
7.恭仁宮             740年
8.紫香楽宮         742年
9.難波京             744年
10.平城京          745年
11.長岡京          784年
12.平安京          794年

テーマ展コーナー

平安宮模型の画像

出土品

緑釉 鴟尾(鳳凰頭部) 平安時代前期(重文)


平安時代くらいの展示

銭貨(皇朝十二銭)

院政の舞台 鳥羽と白河

瓦いろいろ

中世の京都(A.D1185〜1568)
 
 鎌倉に幕府が開かれても、京都の遺跡に大きな変化は見受けられない。天皇・上皇をはじめ、有力な公家や寺社が引き続き所在していたことが要因である。
  室町時代を迎えて幕府が京都へ移ったことから、政治・経済・文化の中心地として、なお一層、繁栄することとなった。この頃の市街地は、 平安京の左京域やその北辺が中心となり、内裏は現在の場所(京都御所)に移動した。
 応仁の乱に始まる戦国時代には、上京と下京の大きなまとまりが形成され、邸宅や寺院、郊外の村、さらに上京・下京の市街地全体を堀や土塁で囲んで自衛するようになる。そこでは権力者のみならず、町衆とよばれる人々が商工業を支え、度重なる戦乱の中でも、たくましく生活を営み、文化を発展させていった。

街並みのうつりかわり
オレンジの線で表されてるのは平安京
色が付いてるのは、中世の都市部分で、上京部分と下京部分に都市が分かれていたことが見て取れますひらめき

中世の展示

桃山文化の開花(A.D1568〜1615)
 永禄11年(1568)の織田信長の入京により、京都は新しい時代を迎えることとなる。しかし、武家御城(旧二条城)・本能寺などを除いて、信長が京都に残した足跡は必ずしも多くはない。
 これに対して、後継者となった豊臣秀吉は、京都を政治拠点として整備した。居城としての聚楽第の造営、京都を囲む総延長22.5kmの御土 居の構築、公家町・寺町の形成、南北に細長い町割の再構成など、平安京以来、少しずつ形を変えてきた京都の町並みが大きく変貌し、市街地が拡大した。また、洛外には方広寺や伏見城が建造された。
 町並みの変貌とともに、金箔を貼り付けたきらびやかな瓦、茶の湯の隆盛を示す志野・織部・唐津などの茶陶に見られる、絢爛豪壮な文化が花開き、産業が発達し、近世社会への道が開かれた。


上のを一部アップすると、方広寺の瓦なども展示されていました😄

外交の関する展示

交流略年表
239  倭の女王卑弥呼、魏都洛陽 へ使者を送る
421-478  倭の五王、南朝宋にたびたび使者を送る

450頃  渡来氏族の秦氏が、京都盆地の開拓を進める

500頃  ペルシャのガラス碗

607-614  遣隋使の派遣

622  秦氏の氏寺蜂岡寺(広隆寺)創建

630-838  遣唐使の派遣

                 唐三彩の輸入

650頃  樫原に仏寺創建(高句麗清岩里廃寺の伽藍配置と類似)

804  最澄空海ら渡唐

800-1000  中国長沙窯、越州窯の陶磁器をさかんに輸入
1167  平清盛の日宋貿易

           宋銭の輸入
1300-1500  中国竜泉窯系の磁器を大量に輸入
1342  足利尊氏の天竜寺船貿易
1350頃  倭寇の活動さかん
1404  勘合貿易はじまる
1576  南蛮寺創建
1600頃  朱印船貿易
               角倉了以アンナン・トンキンへ貿易船派遣
1639  鎖国はじまる

こんな感じで、京都市内のことに纏わる歴史を知ることが出来るので、歴史好きなら寄ってみられると何かしら発見があるかもしれません!?😊

次回はこちらで購入したもの、頂いたもの(頂けるもの)を紹介したいと思います
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ