前回からの続き(3月13日のこと)です
前回の堀川でも書きましたが、この日は一条戻橋の桜も見に行きました記事は春にアップしてます
今回はその一条戻橋自体のことです
まずは現代の一条戻橋

住所・京都市上京区主計町
橋は堀川通りと東堀川通りに挟まれ、一条通りが通っています
駒札

戻橋 (もどりばし)
延喜18年(918)文章(もんじょう)博士・三善流行(みよしきよつら)が亡くなった時、父の死を聞いた子の浄蔵が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていた。
浄蔵は柩(ひつぎ)にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠をこめて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交 したという伝説から戻橋と名付けたという。
浄蔵は柩(ひつぎ)にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠をこめて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交 したという伝説から戻橋と名付けたという。
太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱(わたなべのつな)が深夜この橋の東詰で容貌美しい女子にやつした鬼女に出逢ったという伝説もあるところである。
京都市
(原文のまま)
左岸上流・親柱

右岸上流・親柱

右岸下流・親柱

左岸上下流・親柱

春の河津桜が咲く頃はこんなに華やかになります
上流から

下流側から(右岸から)

下流から(川沿いから)

上流側

下流側

川沿いに解説があります

伝説の橋「一条戻橋」
延喜18年(918)、文章博士・三善清行が亡くなった時、父の死を聞いた熊野の僧「浄蔵」が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていました。浄蔵は柩にすがって泣き悲し み、神仏に熱誠を込めて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交したという伝説から戻橋と名付けられたと言われています。
太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱が深夜この橋の東詰で容貌美しい女子に「夜更けが怖いから送って欲しい」と頼まれたので、馬に乗せたら女はたちまち鬼と化し、渡辺綱が腕を切り落とした、と記されています。
また、一条戻橋は「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていました。伝説では、平安時代の天才陰陽師として名高い安倍晴明の父である保名が殺害された場所であり、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。
以上のような歴史を持つ一条戻橋ですが、現在の橋は平成7年に新築されたものです。
京都市
(原文のまま)
画像のアップ


上にある旧戻橋の親柱は近くの晴明神社に残されています

晴明神社入ったとこにある解説板

源氏物語ゆかりの地
晴明神社
晴明神社の鎮座する地は、平安時代中期の陰陽師である安倍晴明の邸宅があった地と伝わる。安倍晴明は藤原道長と親交を持っていた。道長の日記である「御堂関白記」 には道長が娘彰子の立后、寺院の造営や神社参詣など、様々なことを晴明や他の陰陽師に相談し、占わせたことが記される。
平安時代中期の貴族層にとって、陰陽道は日常に根差したものであり、「源氏物語」にも複数の場面で登場する。「葵」の章では光源氏が賀茂祭(葵祭)に出かける前に、紫の上の髪が長く伸びている様を見て、暦博士を呼び、髪を切るのに良い時間を調べさせた。 暦博士は陰陽師が就く役職である。紫式部が道長と晴明の親交を物語に反映させた可能性もあろう。
京都市内の発掘調査では呪術に用いた遺物が多数出土している。例えば、平安京左京九条三坊十町では平安時代後期の池跡から「天こう」に続いて符篠(ふろく)が書かれた呪符木簡が出土した。この時期、この地は貴族の邸宅であったとされる。呪符の作成も陰陽師が担っており、平安時代における陰陽師の活躍の一端をうかがい知ることができる。
令和5年12月 京都市
(原文のまま)
上記にあるように、今回の大河ドラマ「光る君へ」でも安倍晴明が登場してました演じるはユースケ・サンタマリア
安倍晴明と言えば、陰陽師の野村萬斎氏のイメージが強かったかと思いますが、そんな爽やかで、正義感の強い晴明でなく、ちょっとダークな感じの晴明を好演されてました👍
旧戻橋は鳥居くぐったすぐ左手に小さく復元されてあります

駒札

「一條戻橋」
この欄干親柱は大正11年から平成7年まで実際に使用されていたものです
御祭神安倍晴明公ともゆかり深い橋ゆえ境内に復元しました
現在の戻橋は神社から南へ 百米の処に架っています
(原文のまま)
隣にいるのは式神?( *´艸`)


晴明神社は以前、記事にしてます
今回は新旧?の一条戻橋のことでした😁
この日のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ


