前回からの続き(3月13日のこと)で、梅小路公園のことです


梅が見れたので、公園内をモニュメント探しながら歩きます

白というかブチ?の鳩あんぐり

中には小川が流れています

この辺りは歴史に関する場所でもあります指差し
解説板
西八条第跡
  西八条第は八条亭とも呼ばれ、平安時代後期、平清盛が平安京の八条壬生に構えた六町を有する広大な邸宅で、仁安元年(1166)頃に造営されたとする。その跡地は下京区歓喜寺町・八条坊門町、南区八条坊門町・八条町に当たる。『平家物語』によると、清盛が邸内の庭に蓬(よもぎ)を植えたところから蓬壺(ほうこ)とも呼ばれ、白拍子妓王妓女仏御前の物語もこの邸宅での話しである。清盛は仁安2年(1167)に太政大臣の位を退いてから摂津福原 (神戸市兵庫区)に居を移したが、妻の二位尼時子はここに住み、邸内に光明心院を営んでおり、また、清盛も入洛の折はこの邸宅を使用している。
  清盛は、安元3年(1177) 6月の鹿ケ谷山荘事件の後、この邸宅でその処分を決めている。また『山槐記(さんかいき)』によると、治承3年(1179) 12月16日、高倉天皇中宮で、清盛の娘である建礼門院徳子が生んだ2歳の東宮(皇太子) 言仁親王(後の安徳天皇)がこの西八条第に行啓 し、清盛は終日微笑みを絶やさず、指を湿らし障子に穴をあけ、孫と戯れて感涙にむせんだとされる。
  治承5年(1181)閏2月4日に清盛は64歳で没し、その2日後、この邸で火災が発生した。『平家物語』巻六によると「玉を磨き金銀をちりばめて作られたりし西八条殿、其夜、にはかに焼けぬ。・・放火とぞ聞こえし」と記され、大小50余りの建物が焼けたとされる。
 『
玉葉(ぎょくよう)』によると、のちに再建された建物も、寿永2年(1183)7月25日、平家の都落ちに際して自ら火が放たれ、邸宅は残すところな く灰燼に帰した。文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦において安徳天皇は水死、平家はここに滅亡して、約四百年間続いた平安時代は終わ りを告げる。
  西八条第跡の調査は、公園整備前の平成4・5年の春に行われ、 柱跡や溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や炭化遺物も出土しており、西八条第で火災があったことを裏付けている。なお 遺跡は盛土して保存されている。
(原文のまま)

画像のアップ
この辺りは平清盛の邸宅跡になるそうです
画像を見ると、公園の大半がそうであった感じになりますあんぐり

再び小川

北上して行ったら、花と緑のセラピーガーデンというのがありました
花と緑のセラピーガーデン
「花と緑のセラピーガーデン」は、車椅子で公園にお越しになる方など誰もが身近に花と緑を感じていただけるように工夫された'セラピー空間´です
休憩スペースやレイズドベッド(背の高い花壇)と地植え花壇などの組み合わせにより、花空間を五感でお楽しみいただけます
「花と緑のセラピーガーデン」'花と緑のセラピー講習会´に参加された市民の皆さんのご意見を元に、整備された癒しの園です
(公財)京都市都市緑化協会
(原文のまま)

そこに咲いてる花をパチリスマホキラキラ



その先にあるのが市電ひろば

解説
市電ひろば 
  京都市電は、明治45年6月11日、烏丸線、四条線、 丸太町線、千本・大宮線の4路線で営業を開始しました。 
  その後、大正7年には京都電気鉄道(明治28年開業 の日本最初の路面電車)の事業を受け継ぐなど、京都の発展とともに路線を拡大し、市内の主たる交通機関とし て活躍しました。 
  しかしながら、自動車が増加する中で市電を取り巻く経営環境は段々と悪化し、昭和53年9月30日をもっ て、その歴史に幕を閉じました。 
  この「市電ひろば」は、長年市民の足として親しまれた市電を活用し、皆様に楽しんていただく新たな憩いの 空間として整備したものです。
 平成26年3月 
(原文のまま)

画像のアップ



そんな市電の車両が残されて、店舗として利用されています😄



その辺りから再びモニュメント


七条入り口の方へ向かう途中にもモニュメント


その先に見えた市電の車両は

総合案内所(京都市電2001号車)

住所・京都市下京区観喜寺町2
開業時間・土日祝のみ 10:00〜16:00

その近くには梅小路京都西駅

その近くには京都鉄道博物館があります

七条入り口から公園を望む


その入り口にもモニュメントはあるんです😁

次回はそのモニュメントのことをまとめてアップします
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ