前回からの続き(令和4年11月12日のこと)になります
八竹庵を後にして、新町通りを上がって行きます
三条通りで右折
次の交差点とこに解説板がありました

解説板

 三條衣棚
 室町時代以降、此地に法衣業者が集まって棚賣を始めやがて町名となって現在に及んだ。殊に弘治年間千切屋の祖が此所に店舗を開きしより其の分家別家一門次第に繁栄し此町を中心として近辺に同業を営んだ者百余軒の多きに上ったといふ。
 三條、四條の地は平安中期以降常に商業経済の中心地であり所謂下右京の中樞に位し加ふるに室町末期にはこの周辺に巨刹の碁布せし事が衣棚を此地に発生せしめた要因と考へられる。天正年間秀吉の市街整備にあたり大寺院の殆んどが遠所に移転されたるにもかかはらず業者よく結束してその伝統的営業を続け全国的に斯界の独占的地位を保った。中世に発生したる座が權門社寺の保護下に利権を広大したるに対し衣座は利権擁護の特権の見るべきものなきにかかはらずよく明治初年に及んだ事は経済史上産業史蹟として重考すべきである。
   京都史蹟会
(原文のまま)
この辺りの地名のことの解説でした指差し

再び三条通りを東へ向かいます
また次の交差点の角(西側)には今度は歌碑がありました

五色の辻歌碑
洛中の 五色の辻に 家居して み祖の業を いまにつたふる
吉井勇の歌だそうです
この三条通りと室町通りの交差点のことを五色の辻というそうです
それは江戸時代にこの交差点を囲んだ「千切屋(ちきりや)」一門の壁が東西南北で、赤・黄・青・黒と白の五色が見受けられたことから付けられたということですびっくり
その千切屋は先の解説でも出ていた名前ですひらめき

またまた三条通りを東へ進みます
右手側にホテルがあり、そこにも石碑がありました

三條烏丸御所跡
住所・京都市中京区三条通烏丸西入南側

解説板
 平安京左京四条三坊跡
当該地は、平安京左京四条三坊九町跡に位置しています。この九町は、北側を三条大路、南側を六角小路、西側を室町小路、東側を烏丸小路により四方を画された一町(約120m四方)の中にあり後世には三条南殿三条烏丸御所とも称されてまいりました。
中右記」や「長秋記」など平安時代後期貴族の日記によると、同九町の地は、三条桟敷殿(床を持つ建物)として利用されたり、後には左大臣にまだ昇り権勢をふるった藤原実能の邸宅があったことが記されています。
 昭和62(1987)年度に財団法人京都市埋蔵文化財研究所が株式会社千總の委託を受けて発掘調査を実施しました。この調査によって平安時代に造られた島を伴う玉石敷の遣水(庭園などに水を導き入れるための設備)と大小の景石で構成されている庭園跡の一部及び建物の柱跡などを検出しました。これらの遺構は一町規模の寝殿造による邸宅の一角を成すものと見られ、各遺構からは瓦類や土師器、須恵器の他に釉薬を施した緑釉陶器、灰釉陶器などが多数出土しています。中には中国から輸入された青磁・白磁などの、上級貴族の所有を思わせるものも含まれています。
 寝殿造は日本の庭園及び建築史を研究する上で、重要な位置をしめていますが、現存するものはなく、御所、平等院などにその様式をうかがえるにすぎません。
 この寝殿造とみられる邸宅の一端を発掘調査によって検出したことの意義は大きいといえましょう。
    株式会社千總
    (財)京都市埋蔵文化財研究所
(原文のまま・一部年号補足)

この日の地味〜な散策はまだ続きます😅
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ