前回からの続き(11月12日のこと)になります
革島医院の前にも石碑があります

この地は、江戸時代前期(17世紀後半)には「麩屋町誓願寺下ル町」といい、八文字屋という本屋の店舗があったところです。
当時の本屋は、典籍(てんせき)、草紙類の版元(発行者)でした。印刷(木版刷り)と製本(和綴じ)、そして、販売をも業とする出版物発行の総責任者だったのです。
日本の出版業は、江戸時代の初めごろに京都で始まり、大坂でも盛んになっていきますが、明治の時代になるまでは、京都が出版において日本第一の都市でした。
江戸時代初期の京都では、仏書・儒書・漢詩文書・和学書・和歌書・医書・さらに俳諧書・教科書・遊芸書などが出版されていましたが、江戸中期ごろになると、一般庶民を読者にした劇書や噺本などの出版も盛んになっきます。
八文字屋では二代目・自笑(通称、八左衛門)の代になりますと、歌舞伎芝居の筋書きを読み物にした「絵入狂言本」や、「役者評判記」という当時の歌舞伎役者の評判を、毎年、新版で発行し、劇書では第一の版元になります。これに加えて、江島其磧(えじまきせき)の「けいせい色三味線」や「傾城禁短気(けいせいきんたんき)」などの「浮世草子」という大衆小説本を、読みやすい文字と著名な浮世絵師の挿絵入りで出版して、ベストセラーとなり、文学史上「八文字屋本」と呼ばれる時代を築きます。その小説作法は江戸後期(18世紀後半ごろ)の小説本や、明治時代の小説などにも大きな影響を与えました。
(原文のまま)
これを読んで、出版の中心が京都にあったとは思いもしませんでした
八文字屋自笑
生年不詳〜1745.12.3
江戸時代の長肆、浮世草子作家
八文字屋の2代目(3代目とも)
元禄(1688〜1704)初めに家業を継ぐ
間もなく絵入狂言本の刊行により家業を大いに伸展させる
元禄12(1699)年、江島其磧に依頼した「役者口三味線」が大当たり
元禄14(1701)年、其磧に執筆させた「けいせい色三味線」を刊行
其磧が無署名で著述するため、宝永5,6(1708,09)年ごろから自笑と署名するようになる
宝永7(1710)年ごろから、其磧と確執
享保4(1719)年、和解
江島其磧
1666(1667)〜1735.7.20
京都生まれ
江戸時代の浮世草子作者
富裕な大仏餅屋の4代目として生まれる
元禄7(1694)年、家督相続
間もなく浄瑠璃の執筆を始める
元禄12(1699)年、八文字屋自笑の依頼で書いた「役者口三味線」が当たる
元禄14(1701)年、「けいせい色三味線」を出版
宝永6(1709)年頃、家業が傾く
宝永7(1710)年、長肆江島屋市郎左衛門を開業
正徳2(1712)年、「野傾旅葛籠」で「色三味線」などが自作であると主張
ここから1719年まで自笑と確執となる
その後も多くの出版を手掛ける
(朝日日本歴史人物事典参照)
今年、浄土宗寺院特別大公開で訪ねた本覚寺に自笑のお墓があったようです→本覚寺
石田梅岩の弟子である手島堵庵が、師や兄弟子ちの没後、門下の組織的改革や教化法の改善を進め、講舎五楽舎を開設し石門心学の普及に努める
その五楽舎跡
(いしぶみデータベース参照)
手島堵庵(てしまとあん)
1718.6.12〜1786.3.8
京都の商家に生まれる
江戸中期の石門心学者
石田梅岩について学ぶ
44歳で家督を譲り、心学の布教と統制に専念する
(朝日日本歴史人物事典参照)
六角通りに戻り、再び西へ進むと道沿いに昔ながらな建物がありました
こんな感じで石碑が続きますf(^^;
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ





