前回からの続き(3月3日のこと)です
大光院を後にして、船岡温泉を見て、堀川通りへ戻って下って(南下)いきます
寺之内通りで左折します
宝鏡寺の前を通り過ぎ、前にもアップした「百々橋ひろば」を過ぎたところで右折して下っていくと次の「京の冬の旅」のお寺になります
報恩寺(ほうおんじ)

住所・京都市上京区小川通寺之内下ル射場町579
通称 鳴虎
御本尊 阿弥陀如来
札所 通称寺
駐車場 少し停めれるようです
堂内は撮影禁止ですが、庭園などはOKです👍
こちらは以前伺っています→報恩寺
御朱印はそちらに載っています
通りにはまずこの寺号標があります

その先に山門
駒札

報恩寺
寺伝では室町時代、一条高倉に開創したとあり、法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺であった。文亀元(1501)年慶譽が再興し、浄土宗報恩寺と改め、天正13(1585)年秀吉によって現在の地に移された。
豊臣秀吉の所望により、寺宝の猛虎の絵を聚楽第の床へ飾ったところ、夜中に虎の鳴き声が聞こえ、秀吉は一晩中安眠できず、すぐに寺へ戻されたことから鳴虎として有名となった。この絵は寅年の正月三が日に限り公開される。なお、複製画は常時公開されている(要予約)。
客殿に黒田長政が死去した部屋があり、長政の位牌とその父・官兵衛(如水)の位牌が安置されている。観世流家元歴代や志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺でもある。
重要文化財の梵鐘は平安時代の作で、「勿撞(つかず)の鐘」といわれる。仲の悪い丁稚と織子がお十夜の晩にいくつ鐘が鳴るかで賭けを行い、賭けに負けた織子が口惜しさのあまり死に到ったという話があり、以後、除夜の鐘以外は撞かなくなったということである。
門前の石橋には慶長7(1602)年架橋の刻銘があり、今は埋められた小川(こかわ)の名残を止めている。
京都市
(原文のまま)
報恩寺略縁起

文亀元(1501)年 後柏原天皇より西蓮社慶譽上人一風明泉和尚に綸旨を賜わり浄土宗寺院として開山
天正13(1585)年 秀吉の命により現在地へ移転
慶長7(1602)年 仁舜尼公より門前百々川の石橋が寄進される
元和9(1623)年 黒田長政宿泊中、死去
? 現地へ移転
その頃、観世流能楽、謡曲の家元である観世家歴代の菩提寺となる
(一部抜粋)
山門くぐったら右側に稲荷社

その横に地蔵堂

そのお地蔵さまは室町時代のものだそうです
その先にお寺が見えてきます

こちらから入っていきます

入ったところで受付
拝観券

堂内は撮影禁止なんで画像はありません
こちらのイチオシは看板にもある「鳴虎図」

その逸話が、秀吉が気に入ったので聚楽第へ持って帰ったら、鳴いて寝れないため返したとか⁉
こんな秀吉の話ほかにもきいたような?🤔
秀吉ってどんだけ欲しがりなん
この鳴虎図、1期は本物が見れましたが現在は複製になっています
この掛軸は、後柏原天皇からお寺へ下賜されたものだそうです
近くには信長や秀吉の肖像画もありました
こちらで見たかったのは、黒田長政が亡くなったという部屋
それは客殿(現在は本堂と兼ねる)で、解説はありますが、普通に本堂って感じでした😅
なんで長政がこちらで死去していたのか(藩があったのが福岡だから)と思ったら、入洛時にはこちらが宿舎となっていて、その時に持病が出て亡くなったそうです
そこには伝快慶作と云われる阿弥陀三尊像と、2期の展示で重文の大黒天像がありました
大黒天像は常は博物館に寄託されているものだそうです
小さな像ですが、顔を見るとマンガチックで可愛らしいものでした
本堂前の庭園


よく見るとフクロウ(置物)がいます😁
ここからは外のことです玄関入いる手前の左側も庭園になっています
そこには賓頭廬頗羅堕闍尊者さまがおられました

おびんずるさまとあがめ奉る佛弟子・十六羅漢の一人で阿羅漢果を証し神通力を得て衆生を済度し給う。撫佛することによって難病を除き給う霊験あらたかな羅漢さまです。
(原文のまま)
庭園全景

奥へ行ってみます

その奥には後西天皇皇女 賀陽宮墓があります

その横が本堂庭園となります

山門をくぐった左側は墓地なんですが、そこに鐘楼があります

こちらの梵鐘は平安時代後期に造られた重文の鐘

解説

報恩寺の梵鐘
(国の重要文化財)
足利執権畠山持國が陣鐘に用いた鐘で、全面に梵字の銘が刻印されており、「扶桑鐘名集」に記載されている名鐘である。
平安時代後期の作で、宇治平等院の梵鐘に比すべき古名鐘である。
巷に撞かずの鐘という伝説がある。
今は除夜のみ撞いているが、一般の方々も先着順て撞くことが出来る。
(原文のまま)
入口にある梵鐘の伝承

重要文化財報恩寺梵鐘 平安時代鋳造の名鐘
この鐘には撞くなの鐘。或は撞かずの鐘という悲しい伝説がある。
昔からこの附近一帯の織屋では朝夕に鳴る報恩寺の鐘の音が1日の仕事の初めと終りの合図であった。或る織屋に仲の悪い丁稚と織女(おへこ)がいたが報恩寺の夕の鐘が幾つ鳴るかについてかけをした。丁稚は八つといい織女は九つと言い争ったを悪賢い丁稚は寺男に頼みこんで今夕だけは八つで止めてほしい願いを約束させた。何も知らない人のよい寺男は、簡単に引受けてしまったのである。さて夕になり鐘は鳴りはじめた。丁稚と織女は一つ二つと数えはじめたがどうしたことか鐘は八つで終わってしまった。百八煩悩を除滅することを願って撞くので百八が基準であり十二分の一の九つが正しいのである。十二分の一?六分の一、四分の一、二分の一等に分けて撞くこともある。かけに負けた織女は惜しさ悲しさのあまり、鐘楼にて首つり自殺するに及び、その怨霊のたたりが鐘を撞くと不吉な事が生ずるので厚く供養して菩提を弔い、朝夕に鐘を撞くのを止め、除夜と寺の大法要にのみ撞くようになったというのである。
除夜に参詣の皆様には一つずつ鐘を撞いて戴いてる近年である。
(原文のまま)
拝観料を納めたときに頂いた略縁起

先にも書きましたが、御朱印は以前のと同じようだったので頂いていません(..)
次回は移動して展覧会のことになります
では、またぁ~







