前回からの続きです
(令和元年9月28日のことになります)
木屋町通りから南下して、真橋通り(西)へ向かいます

ここも飲み屋さん通り⁉
すると左手に黒く木造(らしき)の目立つ建物の前に駒札がありました
勤王志士 古高俊太郎邸跡

住所・下京区河原町通四条上る一筋目東入南側
駒札と石碑


古高俊太郎は、文政12(1829)年、近江国大津に生まれた。
父・周蔵は近江国栗太郡物部村古高の出で、大津代官石原清右衛門に仕え、のち山城国山科毘沙門堂門跡
の家臣。俊太郎も同門跡の近習となり、和歌を烏丸光徳に学び公家との交流を深めた。梅田雲浜の門で勤王思想を学び、勤王志士とも交わった。
の家臣。俊太郎も同門跡の近習となり、和歌を烏丸光徳に学び公家との交流を深めた。梅田雲浜の門で勤王思想を学び、勤王志士とも交わった。
同士の一人、湯浅五郎兵衛の依頼で湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋湯浅喜右衛門と変名して、この地に「枡屋」を構えた。密かに武器を集め、同士と連絡を取って援助をするなど、多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていた。
明治24(1891)年、特旨を以て正五位を贈られた。
(文面のまま)
てっきり新選組に拷問を受けて、亡くなっていたのかと思ってました😓
かなり手酷い拷問だったと読んだことがありますから😅
玄関から入り口を望む

天正年間(1573~1592)、豊臣秀吉が市中の多くの寺院を寺町通に集めたことに伴い、その境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見世物や催し物を中心に発展するようになった。
明治5(1872)年、このことに注目した京都府参事槇村正直は、東京遷都で衰えていた市民の士気を盛り上げるべく(廃仏毀釈により寺町が寂れてしまったこともあるようです)、寺院の境内を整理して、そこに新たな通りを造った。新京極通の誕生である。
しかし、整地された土地の買い手はつかなかったそうです
そこで京都府は、現在でいう露店商の元締め・阪東文治郎に依頼して、なんとか町並みを整えされた、という話が残っているということでした
明治10(1877)年には芝居座、浄瑠璃、客寄などの興行場や飲食店なとの多くの店舗が建ち並び、明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに、日本三大盛り場として知られるようになった。
現在も、修学旅行生をはじめとする多くの観光客や買物客でにぎわう、京都を代表する繁華街である。
上方落語の始祖・安楽庵策伝が住職を務めた誓願寺、和泉式部の寺として知られる誠心院や、西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長寺、錦天満宮、染殿院という由緒ある七つの寺院と一つの神社が通りの歴史を今に伝えている。
(原文のまま・一部京都の大路小路参照)
次回はここまでの木屋町石碑散策のまとめとなります
その次(明日)から寺社巡りをアップしていきます(..)
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ






