前回からの続きです
令和元年10月14日のことです)

東大路通りへ戻り、南下していきます
この頃、ブロ友さんが京都にあった大仏殿跡の公園のことを書かれてたので、そちらに行ってみました
大仏殿跡緑地
住所・東山区茶屋町531

東大路通りから、西の脇道へ入ります
場所的には豊国神社の裏手となります
公園として整備されていますが、その痕跡は感じられません😅

大仏殿緑地の解説
図にあるように、大仏殿の中央が公園(緑地)となっているようです

それっぽいのはこの礎石くらいでしょうか?

公園からは豊国神社の本殿を裏側から見る感じになります( *´艸`)

方広寺大仏殿跡の解説
 天正13(1585)年、関白に就任した豊臣秀吉は翌14年、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事を始めます。ほどなくこの工事は中止されますが、六波羅のこの地に寺地を変更して再開、文禄4(1595)年に大仏殿がほぼ完成すると、高さ18mの木製金漆塗の大仏坐像が安置されました。ところが、翌年の大地震で大仏が大破し、慶長3(1598)年には秀吉もこの世を去ってしまいます。その後、子である秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、慶長17(1612)年に大仏を事実上完成させました。しかしその後鋳造された梵鐘の銘文、〈国家安康 君臣豊楽〉が徳川家を呪詛するものであるとして徳川家康が異議を唱えたために大坂の陣が起こり、豊臣家が滅亡してしまったことは歴史上大変有名です。その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10(1798)年に落雷で炎上するまで、「京の大仏つぁん」として都の人々に親しまれました。
 巨大な石塁(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、規模は南北約260m、東西約210mと推定されます、大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が開いていました。仁王門跡から西へのびる道が正面通と呼ばれることも方広寺に由来しています。なお、「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会である方広会(ほごえ)にちなむといわれています。
(原文のまま)

こちらは方広寺伽藍推定復元図

緑地の横の道を行くと、現在の方広寺へと繋がっています

方広寺にある大坂の陣の元になった鐘

天井は華やかなものでした♪おねがい

その問題の言葉は分かりやすいように、白く囲まれています

アップしても分かりにくいですが😰
こちらも以前、伺っていて御朱印を頂いています

この日の最後は食べログでお仕舞いとなります
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ