前回からの続きです
清凉寺の仁王門から出て、小倉山方向へ行くと山門があります
宝篋院
住所・京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9−1

こちらに楠木正成の息子である正行(まさつら)の首塚があります

駒札
白川天皇により創建
当初は善入寺という
南北朝時代に夢窓疎石の高弟・黙庵(もくあん)が入寺し、室町幕府二代将軍・足利義詮(よしあきら)の保護を得て、伽藍が復興される
義詮の没後、その菩提寺となり、院号宝篋院に因んで現在の寺名に改められる
以後、足利氏歴代の崇敬を得て栄えるが、室町幕府の衰亡と共に寺も衰微
明治の初めには廃寺となるも五十数年をへて復興される

山門入ったとこ
右に見えるのが受付で、こちらも発券機で購入するパターンでした
拝観料500円
そこの勝手口みたいなとこから入ります

するとこな光景が目に飛び込んで来ましたが、新緑の頃や、紅葉の頃は見事な光景になりそうです
こりゃ、ここもまた再訪だな( ̄∇ ̄*)ゞ

石庭になってる部分もあります

奥に見えるのは本堂


一番奥へ行くと小楠公(楠木正行)首塚があります
こちらに首塚があるのは、黙庵が生前親交があったことからこちらに葬られたということです

墓前にある石灯篭の書は富岡鉄斎の揮毫
右の「精忠」は最も優れた忠
左の「碎徳」は一片の徳、即ち敵将を褒め称えその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いたが、義詮の徳全体からみれば小片にすぎない、と義詮の徳の大きさを褒めた言葉だそうです
(由緒書きより)

左手の三層石塔が足利義詮の墓と伝えられているもの
右手の五輪石塔が楠木正行の首塚と伝えられているもの
では、なぜ足利にとって敵将である正行の隣に義詮の墓があるかというと、正行の人柄を生前褒めたたえ、自分をその傍らに葬るように頼まれたんだそうです
(由緒書きより)


その石塔の横には石碑が2つありました

欽忠碑
塚の由来を記したもの
明治24(1891)年建立

歌碑
楠木正行辞世の句
かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞ 止むる
(生きて帰ってくることはないと前から思っていたので亡くなった人として我らの名をここに書き溜めておこう)

本堂の左側にも道があるのでそちらを歩きます


その辺りにも枯山水みたいになってるとこや

石灯篭や


山茶花?も咲いてました

こんな大物捕ったどぉ~的なものなんかも爆笑



同じようとこグリグリ撮ってますがσ( ̄∇ ̄;)



やっと本堂正面

そこで動画のぐるり

そして戻っていきます
この通路を跨いでる木は紅葉という話でした

そこから振り返る

こちらで頂いた御朱印です
どうもスタンプパターンのようでしたf(^ー^;

由緒書き

あと少し嵐山散策続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ