こんにちは、
「宇宙のエレガンス」へ
お越しくださり
ありがとうございます。
みなさんのお住まいの地域の
桜は
どんな感じですか?
私の地域は
薄ピンクの花びらが
豪華絢爛に樹を覆っている桜と
黄緑色の葉っぱが
出てきて
ツートーンな桜との
両方が見られます。
雨や曇りの日が多かったですが
それでも
青空に映える桜の花を
見ることができました。
今日、お話しするのは
自分の思考、物事のとらえ方、
どこに注意を向けるかで
自分の生きている世界の幸せ度が
変わってくるという
気づきのお話です。
昨年5月末
私は白内障の手術を受けたのですが
手術の際にどうしても
角膜に障ることになり
もともと
角膜の機能が低下している
病気があったことから
その手術で角膜が
強くむくみ
角膜がむくむと
角膜がすりガラスのような
不透明な状態になるため
視力が低下するという
状態になりました。
その結果、視力が0,02とか0.03
という状態で
世界がぼんやりばやけてしまい
とても細かい活字を読めないため
それまでやっていた仕事ができず
やむなく休職させて
いただいていました。
半年以上、待っても
角膜のむくみが改善されないため
今度、角膜の移植手術を
受けることになりました。
片方の目がこのような状態であっても
もう片方の目が
0.3ほどの視力があるので
実際のところは
何とか
見えて
家の中で生活する程度でしたら
ほとんど何も支障がないのですが
毎日の通勤や
たくさんの細かい字を読む
仕事をこなすのは
難しい状況でした。
幸いなことに
仕事を解雇されるようなことはなく
安心して
休ませていただいています。
そのような状況の中で
昨年、しみじみ気づいたことが
ありました。
普段の私は
仕事を休ませてもらって
角膜のむくみが改善するようにと
治療や回復に専念できる環境を
与えられていることに
ものすごく幸せを感じていました。
その上
愛犬レイちゃんの体調が悪くなっていたので
毎日、レイちゃんと一緒に
過ごせることが
本当にありがたくて
こんな形でレイちゃんの介護ができて
なんて幸せなのだろうと
思っていました。
視力も
本を読んだり、細かい字を
判別することは難しくても
家の中の分かり切った生活に
おいては
見えなくて不自由をするとか
危険ということもないので
目が悪いということについても
特に困ったり、不安になったり
深刻にとらえることは
ありませんでした。
ところがある日
何かの事情で体がものすごく疲れて
気分も落ちていたことがあり
ちょっと昼寝をして目を開けた時
見えた世界が
とてもぼやけているので
それを見て
「わーーーー、なんてぼやけて
いるんだろう?」
「私の目って、こんなに良く見えないんだっけ?」
「こんなに目が見えないなんて
何もできないじゃない…」と
感じました。
なぜか、今更ながら
自分の視力が落ちた現状を
客観的に見るように
誰かの視界として観察するようなスタンスで体験し
そのような驚きと焦りと不安を
感じました。
多分、その時だけ特別に
視力が落ちていたわけではなくて
いつもと同じ視界や見え方に対して
その時はそのように感じたのだと
思います。
今まで平穏で幸せで豊かだったはずの現状が
突然、不自由で問題な、困った現実に
豹変したのを見ていたら
頭の中にヒュンと
言葉の塊が降りてきました。
「全体の中の、どこにフォーカスして
どう切り取るか
どんなスタンスで物事を意味づけるかで
見える世界が全然変わってくるんだよ」っと
聞こえました。
いつもの、「宇宙」からのメッセージですね。
「宇宙」の言うとおりなんです。
私の現状には
モノがぼやけて見えて
くっきりはっきりしないという一面が
あるのですが
私は普段
それをあまり意識しておらず
気にしておらず
それよりも
先ほど言いましたように
仕事を休んで治療に専念できる
境遇や
レイちゃんのお世話ができるあり難さや
自由にすごせる毎日の時間や
…
そういうことに
すごく意識が行っているので
ありがたくて
幸せで
ラッキーで
幸せに過ごしていました。
でも
もしも毎日、目の見えにくさにばかり
注意を向けていたとしたら
幸せな現実もあるというのに
それには気が付かないで
「こんなに視力が落ちて
モノが良く見えなくて
仕事ができなくなってしまって
私はなんて不幸でアンラッキーなのだろう。」
「私は困った問題を抱えている。」
「どうしてこんなに苦しい状況に置かれているのだろう。」と
果てしなく不幸な世界を
生きることになったことでしょう。
自分自身の置かれている状況の
どこに注意を向けるか、
何にフォーカスして
どのようにそれを意味づけるかによって
生きる世界が全然変わってくるのだなぁと
驚きました。
私は
何も問題ないですし
気の毒な人でも
不幸な人でもなくて
それどころか
ものすごく幸せで
いつもラッキーで
常に目に見えない世界に
助けられ護られて
二人三脚でここに居ると思っています。
やせ我慢でも強がりでもなく
そうとしか
思えないのです。
私たちの状況の中に
「問題」というものはなくて
もしあるとしたら
自分自身が
「問題だ」「これではダメだ」
「変えなければならない」と
決めつけているのだと思うのです。
「これは問題だ」「これではダメだ」と
認定すると
自分がそう決めたが故にそのことが
「問題」のように見え始め
そのことが「ダメなこと」に
思えてしまい
何とかして
問題を解決したり
ダメな状況を他の何かに変えなければという
苦しみが湧いてくるのだと
思います。
そこに執着せず
拘らず
「ふーーーん、今はそうなんだね。」
くらいにして
通り過ぎることができたら、
気にしなかったら、
それは「問題」にまで膨らみません。
自分がエネルギーを注ぐから
「問題」として膨れ上がるのです。
人には、
自分の状況に対して
意味を付けたり
原因と結果を結び付けたり
こういうことだと
解釈する習性があります。
それをしたらいけないのではなく、
そもそも全くしないのは無理だと思いますが
そういう習性を利用して
なるべくなら
平安で幸せでありがたい世界を
生きたいものですね。
わざわざ
苦しくなるようなところにフォーカスし続けて
「問題」や「困難」や「危機」を
自分で作り出すことはないですよね。
先ほど例に挙げた、「モノが良く言えない現実」に
私がフォーカスした時
自分が自分の置かれた世界の中で
全体を均等に見回している
のではなく
ある一部分に注意を向けて
それをもとに
自分の世界観を作っているのだということに
気が付きました。
そして普段の私は
自分に与えられているものの中で
いかにいつも
幸せでありがたくて豊かか
ということや
目に見えない世界とのつながりを
意識しているので
その視点で周りを見るから
それに合致する側面が良く見えて
気づくから
こんなにも平安で幸せで豊かな世界に生きているのだと
分かりました。
私の置かれている状況を
全く違う視点で見たならば
多分、もっと違うように見える世界も
あるでしょうし
「問題」や「不幸」や「哀れ」を
見ることもできるでしょう。
でもどうしても
私は自分の世界を見たときに
「わぁ~ありがたいなぁ」とか
「なんてラッキーなんだろう」とか
「目に見えない世界に護られているなぁ、
こんな都合のいい、タイミングって
普通にはないでしょ?}っと
思えてしまいます。
思えてしまうというか、
そういうものが目に飛び込んできて
見えてしまい、
分かってしまうので
「ありがたいなぁ」とか
「ラッキーだなぁ」と
思わないではいられないのです。
つまり
反射的にそういう
パターンになるくらい
私の場合には
全体の中から平安や幸せや
ありがたさにフォーカスし、
切り取る習慣が
しみついているのでしょうね。
しかし体調不良とか何かの事情で
たまに
いわゆるネガティブと言われるものの側面に
注意を向けることもあり
そうなると
「問題だ!」と感じたり
「困ったなぁ」と悩んだり
「どうしたらいいんだろう!」と焦ったり
することもあるのでしょう。
しかし実際は
自分の思考が「問題だ」と認識したり
「これは困ったことである」と認定したり
「これではダメだから、何か他のことに変えなければ
いけない」と考え
そして絶えず頭の中にそれを置き
考え続けるから
悩みや落ち込みが生じるのでしょう。
人は
何か困ったことや
思い通りでないことに遭遇すると
どうしても
その衝撃をずーっと繰り返し想起したり
考え続けたり
心に留めますが
本当は
毎瞬、毎瞬、新しい今が
目の前に起こるので
そちらのほうに注意を向けられたらいいですね。
困った(と認定した)ことも
問題(だと解釈したこと)も
(意味づけの結果)ショックだった(と感じた)ことも
心にずっと握りしめていないで
自分で意識して手放し
流していけるといいですね。
毎瞬の流れの中で
あんまり闇のほうに気を取られずに
光のほうを見て
光で輝いているもののほうに
フォーカスして
いたら
自分がいかに守られていて
十分に与えられていて
幸せ者かということを
感じて生きられますね。
苦しい状況が訪れた時
この仕組みを思い出し
苦しいドラマから抜け出したり
苦しいドラマを俯瞰視する
きっかけになればいいなぁと思います。
幸せって
これから頑張って作るものではなくて
自分の置かれている状況の中で
既にそこにある
幸せに、自分で、気が付いて
自分で、そこにスポットライトを当てる
ことによって
得られる世界なんだと思います💗
このお話が
今
必要な人のもとへ
届きますように
愛するあなたへ
いつも
本当にありがとう





















