ぐうたらでない「ぐうたら紳士録」さん 
http://hama-sush-jp.pro/guutara-shinshi/entry-12015825947.htmlから↓
 ※ 末尾にkatsukoのコメント
 


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  中世のキリスト教世界においては、「神」の存在が自然界を超越したところに置かれていたため、「神」ではない人間は必然的に自然界に生きる存在としてあった。そして人間は、「自然」と対峙したり「自然」を支配しようとしたりせず、「自然」と調和することでそこから与えられる精神的な恩恵に浴したり、物質的な恵みを享受したりしていた。

  ところが、近代になって<“資本主義”社会>が登場すると、資本の自己運動が利己と競争の情念を駆り立てるようになり、人間こそが世界全体の中心、あるい は目的であるという世界観が形成されていくことになった。そして、「自然」と一体化することで心中に紡ぎ出される幸福や満足の喜びを感受することよりも、 「自然」を利益目的として対象化する方が有益であるとする方向へと価値体系が変容していった。

<資本主義経済>というのは、こうした「人間中心主義」に根差す価値観によって構成されている。

 ところで、子どもの住まいの近くに幅にして1メートルほどの水路が設けてあり、そこに放たれている様々な大きさの鯉や金魚が、人影には慣れた様子でその緩やかな流れに身を任せている。

 二歳の孫娘とそこに何度か訪れて餌をあげたことがある。食パンを小さく千切って与え始めると、流れの向こう岸に、まるでどこかから見ていたかのように、いつもきまって雀たちが集まってくる。

 せっかくの来客なので雀たちのところにも餌を投げ与えてやる。すると、雀たちは忙しなく動き回って餌を啄むことになるが、しばらくして満足すると、足もとに餌を残したままどこかへ飛び去ってしまう。

 そうした光景を眺めていると、物欲や出世欲やらの欲望に塗れて、あるいはこの息苦しい抑圧社会に心を擦り減らしながら暮らす人間よりも、雀たちの方が平凡でも穏やかで幸せに生きているように思えてしまう。
                   ここまで転載
 
 ※ この記事を拝読して、まだまだわたしは諸々の洗脳から
  自由ではないとおもいました。
   ルネサンスという語は、ルがre、つまりもう一度という意味、
  ネサンスというのはフランス語で生まれる、がnaitre
 (iの上にあるマークがつくのですが入力できない)、
  ネサンスーnaisssance は生きること、誕生という意味。
  暗闇だった時代、教会から抑圧されていた時代からの解放と
  いうような意味で、ルネサンスは使われています。
    こんな意味を高校の世界史で教わり、何かすばらしいものと思  っていたし、さらに大学(法学部)で、
  近代こそ、とくにヨーロッパ近代こそすばらしい、つまり
  中世は唾棄すべき時代というイメージを植え付けられていた
  ような気がする。
   自然破壊という観点からすると、江戸時代はそれこそ
  “sustainable”だったのだと知りーそれが徹底的な  
   身分差別に支えられていたとはいえー江戸という時代を
   見直すようには、かなり以前から変わっていたのですが―
   江戸時代はまあ中世というか「近世」と分類されますが―
   ヨーロッパのルネサンスが文句なくすばらしいとき、という
   イメージは依然払拭できないできました。
    それで原子力ルネサンスという語にも拒否感が強かった
   のです。なぜこんな恐ろしいものをルネサンスとくっつけるのか
   と。
    けれどももしかすると原子力ルネサンスという語は、
   実はルネサンスという語の元々の意味をそのまま
   継承しているのではないかと、上記ぐうたら紳士録さんを
   読み気がつきました。
    ルネサンスという語は、旧来のものを壊して新しいものー
   新しいものはいいものではない、むしろよからぬものである
   かもしれない、それを押し付けるときに権力者が使う 
   幻惑のための道具なのではないか。
    ニュータウン”再生”しかり、地方”創生”しかり、
   大阪都”構想”しかり。
    ヨーロッパ中世というと、魔女狩りとか適正な法と手続きに
   よらない暗黒裁判とうイメージが強かったのですが、
   何のことはない、ルネサンスという語も、そういうことをしていた
   連中自身が喧伝し始めたのではないか。

    *「近世」、「連中」という語について、次記事でー