「わたしの戦中・戦後の体験」 引退牧師:結城 晋次

 

(1)

わたしに示されたテーマは、「わたしの戦争体験」です。

ところが、当時、わたしは就学前の児童に過ぎません。拙い戦争体験ではと思われますが、多少のお話してみたいと思います。

太平洋戦争の始まる直前、1939年(昭和14年)8月に、東京の大森5丁目で、六人兄姉の次男として生を受けました。

時は、「満州事変」(1931)、「上海事変」(1932)、「中日戦争」(1937)と続き、日本帝国が領土拡張に懸命になっていた時期です。

当時、兄が所有していた日本地理の教科書には、アジア全域が日本の領土として赤色で染められていました。

兵士の徴用といえば、「赤紙」令状が普通でした。ところが、わたしの父親は光学技師であったことから、内地勤務を命じられた「白紙」令状でした。

戦時下になると、ほとんどの学童は疎開を命じられました。ところが、就学前のわたしだけは、終戦まで両親のもとにいました。それで空襲の何たるかを目撃できました。

 

1942年(昭和17年)の春先、首都圏にも大空襲のくる気配を察した父は、東京大森から横浜市鶴見区東寺尾の社宅に移住しました。庭の周囲は多くの樹木で囲まれていたことから、上空の視界からさえぎられていたため、焼失をまぬかれました。

昭和19年頃になると、空襲が激しくなりました。

軍艦マーチと共に、空襲警報が頻繁にラジオから流れはじめました。

「ただいま、浦賀水道沖、敵機B29二機接近中」―、こうした臨時ニュースが流れると間もなく、市内の警報が一斉に唸りを挙げます。

しばらくして、B29数機が上空に現れますが、なにごともなく飛び去りました。

敵機来襲の知らせと共に、防空壕に潜り込む習慣はそのころからです。

ところが、わが家の防空豪ですが、庭隅に、L状に掘った穴の上に鉄板をかぶせて、その上に土を盛ると言う、まことに貧弱なものでした。

年明けて、1945年(昭和20年)になると空襲は頻繁となりました。日本の主要都市のほとんどは、絨毯・無差別爆撃を受けました。

なかでも、3月10日の首都圏の空爆は凄まじいものです。

B29爆撃機・325機という大編隊が、天と地を震わせながら、凄まじい轟音と共に首都圏上空に飛来してきました。

特に、京浜工業地帯は、通称・千ポンド爆弾と言われる大型爆弾が大量に投下されました。大型爆弾は炸裂すると、周囲に激しい対流現象を起こし、周辺の砂塵を舞い挙げ、あたり一面は暗闇に包まれます。しばらくして、大粒の黒い雨がボトボトと不気味な音を立てながら降ってきます。

凄まじい家屋の焼失により、首都圏上空一帯はあざやかなピンク色に染まりました。その恐ろしい光景をガタガタと身体を震わせて、わが家の窓から呆然として眺めていたことを今でも覚えています。

住宅地域は焼夷弾でした。

長さ四・五尺の灰色をした円筒形の筒に、ゼリー状の石油を布に浸み込ませたものが「焼夷弾」です。火が付けば、消すことはできません。

その夜、上空から落とされた焼夷弾の数は30万発といいます。

しかも、周辺地域から東京湾に向かって、住民を追いつめるという計画的な無差別爆撃です。

一般住宅に空爆をしないことは、当時の軍事的了解であったいいますが、おかまいなしの無差別爆撃でした。

2時間半の爆撃により、死者10万人、被災者約100万人、焼失家屋30万戸―、江東、深川、本所、浅草周辺は完全に廃墟と化しました。

「焼夷弾攻撃だけで一夜にして10万人もの人が亡くなるというのは、核兵器の被害と同じではないか。通常の火薬兵器でありながら、核爆弾並みの被害でした」とは、作家・早乙女勝元さんの証言です。

空爆は、全国の530市町村にまで及びました。

広島・長崎の原爆による被害数を除けば、民間人の死者数は、全国の市町村で推定約20万3千人と言われています。

B29の編隊が現れると、四方八方から「探照灯」(サーチ・ライト)により、上空は照らし出されます。

当時のB29は、酸素マスクを装備している最新鋭機でした。

高度1万メートルを保ち、被弾されることなく、悠然として本土深くにまで飛来してきました。

当時の日本の高射砲の能力は、高度8千メートルが限界といわれています。

鶴見の高台―、三ツ池の高射砲陣地から発射した弾は、ほとんどB29の機体までとどきません。

ところが、なかには、被弾を受けたB29が、鶴見の総持寺の崖プチに、機体の原形をとどめたまま墜落したことがありました。

硝煙を挙げている機体の側に、米兵の手足が散乱しています。胴体が機体のエンジンにのめり込んでいました。

色鮮やかなドロッツプ缶が足元にころがっていました。すばやくポケットに入れて持ち帰りました。

 

空爆と共に、敗戦まじかになると機銃掃射がありました。

硫黄島から発進したというグラマン戦闘機の機銃掃射により、わが家のトタン屋根はブスブスと音を立てて撃ち抜かれました。その時の機銃掃射でお隣の御主人は即死しています。

 

・敗戦まじかとなり、人類史上類をまれなる玉砕戦法を考えました。

山口県周南市沖合に、「大津島」という小さい島があります。そこには、「人間魚雷回天」の記念館があります。

戦局が極度に悪化した昭和18年頃、開発されたとようです。

回天とは、天をめぐらし、戦局を好転するとの意のようです。

兵士一人が魚雷艇に乗り込み、敵艦に体当たりする玉砕戦法により、回天の訓練を受けた者1375人―、そのうち145人の若い命が犠牲となりました。

さらに、鹿児島県知覧市には、「知覧特攻平和記念館」があります。

7年ほど前に、そこを訪れる機会がありました。

飛行機もろとも敵艦に体当たりするという玉砕戦法により、約6400人もの若い兵士が犠牲となりました。

記念館の壁一面に、無数の遺影を見ている内に、名状しがたいほど身震を覚えました。

館内には、その当時、多くの日本人が愛唱していた「海行かば」が静かに流れています。「海行かば 水漬(みづく)屍かばね、山行かば 草生むす屍 大君の辺へにこそ死なめかへりみはせじ」――、その意味といえば、兵士は、たとえ戦場にしかばねを曝したとしても、天皇のかたわらで、心を寄せながら戦死するのであるから、決して 後悔をしてはならぬというのが大意といいます。

いつしか、「知覧特攻平和記念館」の「平和」に疑念を抱きました。特攻隊員の犠牲的な死と、今日の平和な日本とは深く結びついているものと思っていたのですが、しかし、特攻隊員の死と戦後の日本の平和とは、結びついていないのではないかー、むしろ、結びつけてはいけないと思うようになりました。

特攻作戦が間違っていた、やるべきではなかった、また特攻で亡くなった若者の死が無駄であったなどと考えているわけではありません。

特攻隊員の死と戦後の平和とを結び付けて考えることは、特攻というシステムを新たに生み出す危惧を覚えたからです。

日本国民が、わが身の犠牲をいとわず、天皇と皇室の為に身を尽くすべきことが日本国民の本分であるとの考えが刷り込まれたのは、「明治憲法」と「軍人勅諭」と「教育勅語」とにあるといわれてきました。

*「軍人勅諭」は、1882年(明治15年)1月,明治天皇が下賜したものです。起草者は西周といいます。そこには、天皇が統率する「天皇の軍隊」とあります。「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」・「軍人は礼儀を正しくすべし」・「上官の命令は天皇の命令と同じである」・「軍人は武勇を尊ぶべきである」・「軍人は信義を重んじるべきである」・「軍人は質素であるべきである」。

そこには、「忠節,礼儀,武勇,信義,質素」という五つの心得が並んでいます。 

「兵士の死は鴻毛よりも輕し」という有名なフレーズは、「軍人勅諭」を基にして生まれたといいます。

*「教育勅語」は、1890年(明治23年)10月に発布され、近代日本の教育の基本方針となりました。

「汝臣民は、父母に孝をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以て交り、ヘりくだって気随、気侭の振舞をせず、人々に対して慈愛を及ぼすようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守すべし」―、

ここまでは異存がありません。

問題は、最後の部分です。「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい、一身を捧けて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あつまひつぎ)の御栄をたすけ奉まつれ。」

即ち、戦争ともなれば、その時は犠牲を惜しまず、天皇・天守さまのために全身全霊を尽くして滅私奉公いたせという教えです。

*「明治憲法」は、翌年の1981年(明治23年)発布されました。

「大日本帝国憲法」に、天皇は主権者であり、統治者であり、元首であり、陸海空の最高責任者であると定めました。 戦後の日本国憲法が制定されるまでの59年間、日本の政治の方向を定めました。

 

(2)

ここから、わたしの個人的体験を述べてみます。

1945年(昭和20年)の8月、東京大空襲の5ヶ月後、広島・長崎市に原爆が投下されました。それから6日後の朝ー、終戦とも敗戦とも不明な玉音放送が流れました。

「ブツブツと、もの言う声の、おぼつかな、よくわからねど、負けたらしいかな」とは、当時の新聞記事です。

国民に分かる平易な言葉で負けたという意図を伝えようとしません。

そこには、敗戦にいたる責任の所在をあいまいにした言葉が並んでいます。

兵士300万人・民間人300万人、アジアの犠牲者2000万人という多くの犠牲者と共に、敗戦を迎えました。

8月15日の朝は、天高く天気晴朗でした。ものみな静まりました。警戒警報はなくなりました。防空壕も不要となりました。灯火管制もありません。夜になると町に明かりが灯りはじめました。

ところが、それからわずか数日後の朝です。突然、轟音を響かせて、超低空飛行のB29の大編隊が首都圏上空に飛来してきました。

それはまるで、日本国民よ、敗戦した事実を直視せよと言わんばかりの威嚇的な光景でした。

終戦を迎えましたが、大半の国民は、戦中は勿論、戦後もしばらく、極度の貧しさに耐えていました。

「撃ちてし止まむ」・「贅沢は敵」―とは当時の合言葉でした。

「水団」・「御粥」・「芋粥」が主食でした。しかし、御粥とはいいますが、茶碗の中で米粒が泳いでいるような御粥です。食糧も衣服まで、すべてが配給制でした。そのためか、闇市は大繁盛行でした。

終戦後の食糧難の時代に、闇市の米を拒否して、果ては栄養失調となり、餓死した地方裁判官がおりました。

都心部に住んでいたものは、農家に米の買い出しに出向かなければ餓死しかねません。家中に、ろくな食べ物がありませんから、ネズミもいない始末です。

当時の「味噌」・「醤油」には、防腐剤が入っていません。一週間もすると青カビが生えてきます。塩は岩塩に近くすぐ変形してきます。まともな野菜などありません。雑草まで口にしました。「赤座」といわれていた道端に生える雑草を、煮沸し、灰汁抜きして、御浸しにして食しました。

空襲で焼けた家に入り込んで、米びつで焼け蒸したコメを口にして、飢えをしのぎました。

1946年(昭和21年)、「住所」・「氏名」を国民服に縫い付けて、「国民学校」の一年生として入学しました。

今でも歌える歌があります。「進め小国民、はつらつと元気よく、胸を張り、大手を振って、いざ進め、たえ見ることなき、唇きりりと、我慢は強いな、いざ進め、進め、進め小国民」。

昭和21年に、国民学校が廃止されて、JHGの指導による戦後教育が始まりました。

当時はまともな紙がありません。教科書といえば、ざら紙に母親が墨で書いた手作りのものでした。

朝礼は毎朝ありました。国旗掲揚で始まり、校長の訓辞が終わると同時に、「頭45度後ろ向け」と言う号令とともに、宮城方面に向かって深々と最敬礼をしました。年明けて、2月11日の「紀元節」には、紅白の落雁をいただきました。校庭の片隅に「奉安殿」がありましたが、その存在にほとんどの者は気づいていません。

 

(3)

十代半ば頃まで、「生きるとは何か」をあれこれ考えていました。

生きていることの不思議さや、さまざに矛盾に満ちている現実と触れているうち、いつしか、人間のいだく理想や希望の全てを根底から無意味と化する凄まじい出来事を知ったのも丁度そのころでした。

その一つは「ヒロシマ」・「ナガサキ」であり、もう一つはナチス・ドイツの強制収容所です。

 

・ポーランドの沼沢地に建てられた、ユダヤ人強制収容所のガス室において、人間を焼却できる一日の最高作業能率は、2万4千人であったと言う。

近代的、科学的な操作を駆使し、能率を挙げて、非ドイツ人であるユダヤ人を峻別して、600万人を灰塵に帰したという。思わず天を仰ぎました。

多くの人間味あふれる文化的遺産を誇るドイツが、どうしてあれだけの非人道な大量殺人行為をなしえたのかー、どう考えても不可解、不可同・不可思議なことでした。

・ヒロシマ・ナガサキでは、在日韓国人2万を入れて、20万という広島市民を原爆の火焔に巻き込みました。

しかも、原爆を投下した側は、事前に原爆を投下後の被害状況まで、科学的に計算しつくした上で、原爆を投下したと言う。

人間は人を殺す理由をアレコレと後付けして正当化します。

曰く、正義のため、曰く、戦争終結を早めるため、曰く、自国の兵士の犠牲を少なくするためー、原爆投下はやもうえなかったと。

「あれはジェノサイドである」―、21世紀になり多くの科学者が証言しています。

何か底知れぬ人間の罪深さを思います。右手で平和を説きながら、左手で戦争を正当化します。人間として、最低限の矜持さえ持ちえないとすればば、人間以下になりかねません。

それにしても、広島・長崎を正当化する意見に疑念を抱き続けてきたわたくしが、気づけば、いつしかキリスト者となりました。

米国の宣教師と出会えば、必ず原爆の是非を問い正してきましたが、その度に、いまさら何を言うかと怪訝な顔と出会い ました。

 

原爆の製造・実験・投下に立ち会った著名な科学者、またジャーナリストでもあった、W・L・ローレンスの著書「0の曉」には、原子爆弾を搭載した「エノラ・ゲイ」と援護の二機と合わせて、テニヤン島を夜明けに飛び立つとき、ミネアポリス市のルーテル希望教会の従軍牧師「ドウネイ大尉」のささげた、祈祷のことばが記録されています。

「主よ。主を愛するものの祈りを聞き給え。主のいます天の高みとともに、高く天がけり、いくさに向うものどもとともにいまさんことを。命ぜられし地へ飛び彼らを守りたまわんことを。われらとともに、彼らも、主が強きと力とを知り、主が力に鎧われて、すみやかに、いくさを終わらしめんことを。いくさの終わりのすみやかに来たり、ふたたび、われらに地上で平和を知らしめたまわんことを、主の前に祈りたてまつる。この夜、飛ぶ人びとの、主が守りによりて安らかに、また帰路を全からしめられんことを。われら常に主の加護を知り、ひたぶるに、主を信じて進まん。アーメン」。

W・L・ローレンスは、それを「非常に感動的な祈祷」と評しています。

しかし、「感動的な祈祷」とは何なのでしょうか。主イエスは、この世の虚無を背にして祈られた祈りはー、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」でしたが、これこそ、広島・長崎の現実に即した祈りではなかったかと思われます。

(3)

最後に、敗戦後の日本が「得たもの」と「失ったもの」について考えておきます。

1.「得たもの」とは、「憲法前文」と「憲法9条」とであるとの指摘があります。しかし、先の大戦において、あれほど多大な犠牲と損失とがなければ、果たして、恒久平和を願う国民となりえたかは、はなはだ疑問です。

日本国憲法9条は、「戦争の放棄」だけでなく、「戦力の不保持」―、つまり軍備は持たないことまで明記しています。

この日本国憲法が発布されてから10か月後、1947年(昭和22年)教科書により、全国の中学生は平和憲法について学びましたが、残念ながら、この教科書は二、三年しか使用されませんでした。

1950年の朝鮮戦争と共に、日本は兵站基地となり、日米安保条約が結ばれ、自衛隊が生まれ、いつしか、平和憲法の話は教室から姿を消しました。

「2020年国別軍事力ランキング」によると、現在の日本の軍事力は、世界で6番目、米国、ロシア、中国、インドという軍事大国と肩を並べています。

日本には、憲法9条があり、自衛隊は「戦力ではない、防衛のためである」と弁解につとめていますが、そんな言い訳は、現在の世界では通用しません。

2.次に「失ったもの」です。

わたしより10歳年上の兄は、終戦直前、土浦の「海軍飛行予科練習部」―、いわゆる予科連隊に入隊しました。しかし、すぐ終戦となり、わずか四か月で除隊となりました。

芽吹いた若葉が傷つけられたかの如く、兄はフイと家から姿をくらまし、三年間、北海道の奥地で木こりとなりました。その後、高校教師の職に就きましたが、どうしたことか、いつも、冷めた眼差しをしていました。

敗戦後の精神的空白と経済的混乱に巻き込まれて、虚脱状態におちいり、生きるすべを見失っていた多くの者が、「これからは自由だ、気ままに生きろ!」と、放り出された感があります。

その故か、総じて、昭和一桁世代に出会うと、どことなく空虚な眼差しと出会います。

余談をいえばー、昭和一桁世代には、さまざまなトラウマを抱えて屈折した人物が多くいます。

「三島由紀夫」は、昭和元年生まれ。戦後の日本社会に潜む危機を鋭く暴いて自決しました。「野坂昭如」は、昭和5年生まれ。戦後の日本社会に潜む危機を鋭く指摘しました。「大島渚」は、昭和7年生まれ。終始、時代の権力に抗い挑戦し続けました。そして、わたしの兄もまた、昭和4年の一桁です。

1970年になり、敗戦後の貧困から徐々に脱出しはじめました。経済的には奇跡的な復興を遂げて暮らし向きは著しく豊かになりましたが、一方では、さまざまな内面に亀裂が現れました。

1960年から1970年にわたり、日米安全保障条約に反対する大規模な反政府運動―、それはまた、反米運動でもありましたがー、「岸を倒せ」の怒号が国会周辺を取り巻きました。

さらに、同時代に、「連合赤軍」による「あさま山荘事件」は、その時代に強烈なインパクトを与えました。 

さらに、1970年の11月25日―、

「戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た」―、こう時代を痛烈に糾弾したのは、作家の三島由紀夫です。

「陛下は何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。などて、すめろぎは、人となりたまひし」―、戦後の天皇の裏切りを直訴して、三島は自決しました。

さらに、1980年代末期から1990年代中期には、日本中を震撼させた「オーム真理教事件」がありました。高学歴の青年達が、富士の裾野の建屋に立てこもり、サリンを製造し、国の転覆を考えていたというー、とうてい信じ難いことでありましたが、それはそうとして、彼らをそこまで精神的に追いつめたものとは何であったのかー、今にして思えば、思想も行動も時代錯誤の感でありましたが、それでも、著しく変動していた時代であります。わが身の置き所、いえ、捨て処―、それはまた、わが身のすべてを犠牲としてささげても、少しも惜しいとは思えない、究極の献身の対象を求めていたのではないかと思われました。

 

「浪人時代」に、いつしか自分の内面に広がる様々な問題、自分の生き方についての疑問、煩悶とに直面し、出口の見えない彷徨の期間を過ごすしました。省みれば、こうして「イエス・キリストとの出会い」に至る舞台が整えられていました。

二十歳を過ぎて間もない頃ですが、人生の再出発を促されて、キリスト告白に導かれ、洗礼を受けました。

人生の意味と目的とを賦与してくださるお方―、死と虚無とに打ち勝たれた究極のお方―、そのお方を救い主として信じた時、それまで悩みぬいてきた人生の根本の問題に、もはや、決して消え失せることのない究極の答えと根拠とを得たとの確信に導かれました。 

しかし、そうは言うものの正直申せば、そのころのわたしは、聖書のなんたるかが皆目分かっていませんでした。

無知の故でしょうか、修養菜根譚とか、ニイチェや、デカルトなどを聖書と並行して読んでいました。「きけわだ民の声」もまた、いつもポケットに入れて愛読していました。どうも献身について考えていたようです。

昭和27年に、箱根における内村内村鑑三の講演「後世への最大遺物」と出会い大きな転機を与えられました。

「私が死んで骨がぼろぼろになっても、私の名前は歴史には残らないと嘆いた故人のように、私も時々絶望しそうになります。お金も事業も文学も思想も、本当の「最大遺物」にはなりません。(中略)。・・・、では最大遺物とは何でしょうか。後世に誰でも遺せて、有益で害にならないものは、勇ましくて高尚な人の一生であります。これが本当の遺物ではないかと思います。世の中は悪魔ではなく、神が支配するものである、失望ではなく希望があるのが世の中である、悲しみではなく喜びに満ちた世の中であると信じて生きていくことなら、誰にでもできます」。

「誰にでものこせるもの」とは何かを考えて、受洗後二年目に、神戸改革派神学校に入学しました。

「献身」とは、新約聖書の奥義と思われます。特に、ヨハネ3章16節は、云わば、全世界に告知された神の献身の事実ではないかと思われます。

人が献身を志す以前に、神の独り子の献身の事実がありました。

この「神の献身」の事実を知らされた者が、献身へと促され、献身の生涯へとみちびかれたのです。

キリストの献身を受けた者だけが、真の献身へと導かれるのではないでしょうか。「神が、献身を与えたもうことにより、われわれは神へと献身へと解き放たれた」とも言いえます。

「へベル、へベル、すべては、へベル(空)」との伝道者の言葉が響くこの世にあって、真の献身のなんたるかを知らされ、はじめてエゴを脱することができ、自らの生死をかけても、少しも口惜しとは思えない究極の献身の対象と出会った喜びにわが身が包まれました。

かくして、イエス・キリストが「わたしの主」であり給う時、人間としての生き方を覚え、愛を覚え、信頼を覚え、献身を覚え、他者に仕え、他と共に生きる喜びを知るに至りました。こうして、感謝と希望とが与えられ、人間としての生きるすべが定まりました。こうしたことを次の世代に証しする使命が与えられていると自覚しています。

以上、何かお役に立てれば、この上ない幸いです。

 

【祈り】 

 

結城晋次牧師のプロフィール
 

神戸改革神学校中退。

聖書神学舎卒。

1968年から橫浜上野町教会で33年間奉仕。

沖縄読谷村開拓伝道に6年間従事。 その後山口に移住。

単立防府聖書教会、周東のぞみ教会で牧会をする。

 

結城先生から原稿を頂いたので掲載しました。

現在、日本では「戦争を知らない子供たち」によって政治・経済が動かされています。

戦争の悲惨さを語り継いでいくことが平和に繋がるのではないでしょうか。

カトリック教理では、戦争することを認めていることも忘れてはならない。

 

 
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