1995年の1月17日から、23年がたちました
あの時のことは、よく覚えています。長男が、三才、次男が、一才。後一ヶ月で、三男が生まれる予定、というときでした。一階の和室で、私と息子2人が寝ておりました。午前5時46分でしたから、まだ、よく眠っているところでした。寒い朝でしたよ
奈良は、震度4で、いつもより、大きく揺れたので、私は飛び起きました。でも、2人の息子は全く起きずに寝ておりました。
当時、我が家は、テレビを見ない生活で、ただ1つあるテレビは、二階にあるのでわざわざ、その日も
見に行くこともなく、7時くらいにみんなで起きて、朝ごはんを食べて、「かなり、揺れたよ」
「へー、知らなかった、、」とかいう会話をしながら、普通に過ごしていました。
午後1時くらいに、電話が鳴り(そう言えば、この時、我が家には携帯がありませんでしたね)、
出たら、私の実家の母で、ものすごい大きな声で
「あなたたち、生きてるの!大丈夫!」
とものすごい勢いで話してくるのです。
私は、「何か、あったの?」と聞くと、
母は、「何かあったじゃないでしょ!大変なことになってるのよ!とにかく、二階に行って、テレビを見なさい!!」と叫んでいました。
つまり、地震があった後すぐに、奈良に電話したけど、全く繋がらない。要するに、安否確認の電話が
殺到して繋がらなかったのです。
それで、何時間もかけてみたけどかからないから、
妄想がどんどん膨らんで、奈良の家は潰れて、
娘一家は大変なことになってると思ったらしい
のです。
それで、急いで二階に行き、テレビをつけて、
私は愕然としました。子供たちは、あまりよく
わかってないようでした。
それからは、何日間もずっと、テレビの前を
離れられませんでした。毎日、毎日、報道される
ニュースに涙しない日はなかったです、、
神戸に住んでいる知人とは、なかなか、連絡が取れず、向こうからの連絡待ちでした。何ヶ月かたって
話すことができたのですが、それはそれは、
この世のものとは思えないことでした。
幸い、私の知人で亡くなった方はいなかったのですが、家の中を対角線に、アップライトのピアノが
飛んだ、とか、首まで瓦礫で埋まって助けを
待ったとか、マンションの4階に住んでいた人が、
外に出ようとしたら、1階から3階まで潰れて無くなっていたとか、自然の脅威の恐ろしさに、身が
震える思いでした。
瓦礫に埋まっているけど、瓦礫が重すぎて何か
道具をと、探しに行ったら、火が迫っていて、
結局助けられなかったという話は、少なくありません。
近所の人たちで、瓦礫に埋まった人を助けようと
みんなで走り回って瓦礫の下の声に耳をすませようとしても、空を飛んでいるマスコミの
ヘリコプターがうるさすぎて、
聞こえなかったという話も聞きました。
私は2月に出産を控えていたので、テレビを見ることしかできませんでした。映像に残すことも、全国にニュースとして知らせることも大事だが、それに関わるのは、少人数にして、現場に来た人間は、マイクではなくて、シャベルやツルハシや素手ででも、瓦礫に埋もれている人を助けるのが、人間のすることじゃないか!とテレビ画面に向かって叫んでいました。
コメンテーターや専門家の意見で多かったのは、
「このような地震が、関東であったら、ここまでの
被害にはならなかった。なぜなら、関東、東海は、
ずっと、大地震があると想定して準備しているから。」というものでした。
神戸、淡路は、地震があるとは思ってなかったから、このように被害が大きくなったというのです。
そんな、しょーもないことを、ゆっくり、
椅子に座って偉そうに言っているのです。
そんなこと言っている暇があったら、
スコップを持って瓦礫をどかせるのを、手伝え!
と思いました。
二次被害などもあるので、素人がですぎるのは危険なのはわかりますが、でも、腹が立ちました。
私はその人たちの顔を、今でも覚えています。
2011年の東日本大震災の時、あるニュースキャスターが、「このように、政治が落ち着かなかったり、不安定な時は、必ず、このような大きな災害が起こるんですよ」と、言ったんです。
私は、「はぁ?政治が落ち着かないのは、政治家が、バカなだけでしょ!なぜ、そのために、何の罪もない人たちが、あんなにたくさん、亡くならないといけないのか!ふざけるな!」と腹が立って、そんな見識の人間がテレビで堂々と、言ってるなんて許せませんでした。
今も、そのキャスターがでると、私はすぐにテレビを消します。私は、彼を、絶対に、許さない!
結局、政府も政治家も官僚もほとんど、
役に立たないということです。まず、国民のために
動く政治家を選挙で選ぶしかないですね。
灘に子供たちが通うようになって、灘の体育館が、遺体安置所になっていたことを、知りました。
灘の校門の門柱や塀に数えきれないほどの
安否確認の紙が貼られていたのも、知りました。
灘校のある東灘区は、犠牲者の数も一番多かった
そうです。
日本は、地震国なのは自明なのですから、物はしかたないけど、1人の命も決してなくしてはいけないと、覚悟を決めて、街づくりや国づくりを、しなければならないでしょう。
それには、実際、起こったことを正確に次の世代に伝えていくことが不可欠だと思います。
どうぞ、関西から遠いところに住んでる方も、
今一度、阪神淡路大震災のことを思い出して、
子どもさんと話し合ってみてください。
子どもの未来のために。