なんだかすごく軽くなりました。

以前から学んでいた、アニカというヒーリングを
スッキリと手放しました。

新しいセラピーを始めようと思います^ ^

南阿蘇の自然やハーブ、ヒプノセラピー、瞑想など
組み合わせたセラピーにしたいなあ!と思っています。

まだ、ヒプノは初級なので来月の中級を受講して、
組み立てようと思います(#^.^#)

アニカは、わたしが学んだとき、ものすごくシンプルなヒーリングで、
そこが気に入っていました。

ただ、アニカとはアニッチャ、無常、からきているとのこと。

どんどん変化していくヒーリングのようで、
わたしが受け取ったものからはすでに、
変化している模様。

そもそも、わたしがやっていたものが
「アニカ」なのか?という疑問さえ
生まれていた今日このごろ。

シンプルなのはシンプルなままなのかもしれませんが、方向性が外から見えなくて、
わたしには、(わからない)感じになっていました。

縁が遠のいたというような感覚、かなあ?

不思議なことに。

「アニカの世界は、変になっちゃったなー」と
正直、思っていたのですが(おや、正直すぎよ!笑)

〈変でもいいね。誰もが、自由にやればいいんだもの。正しさより、みんな、愛しいよね。〉
と思ったら、胸がポカポカあったかくなって、
自分の中の裁く気持ちが萎んでいって。

もう、握ってなくていいなあ。と。
ポン!と手放せました。

疑いやちょっと嫌な目で見てたときには
(関係者の皆さん、すみません。笑)
手放せなかったのに、

なんだか、自分の歩く道とは違っても、
それも、愛しい世界だな。と思えたら
手放せたのが、
自分でも面白かったです。^ ^

愛が無かったから、執着していたのかもしれないな。


自分で歩くのはドキドキするけど
ワクワクもします。

お世話になった皆様、
ご縁ありましてまだお付き合いくださっているアニカ繋がりのみなさま。

ありがとうございます♡

昨日から、この聖書の一節が頭をグルグル。

クリスチャンじゃないのに
申し訳ないような気もするのですが

自分のなかに愛?を発見して、
それを留めておきたいので。

それと、数秘で 3 の私。

今の幼子のような軽やかさも残していたいので
引かせていただきます。

・・・・・


コリントの信徒への手紙 一 13章

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 『聖書 新共同訳』
 ©共同訳聖書実行委員会
 


愛たっぷりに