(前記事
からつづきます)
イエスと言えばスーパーヒーラー。
(クリスチャンの方にとって失礼がなければいいのですが!)
(ハーブ ヒソップ)
数々の癒しの奇跡を起こしたと伝えられています。
この、奇跡物語について
荒井氏は
この女性がイエスの衣服に触れる、ということが
当時のユダヤ教の祭祀的にはタブーであったと
述べておられます。
当時は、長血という病気を患っているひとが、ほかの人に触れると
穢される、と考えられていたからです。
(現代では、そんな差別的なことはありえないことですが!)
でも、<あの方(イエス)の着物にでもいいから触れば、私は癒される>とこの女性は信じたのです。
そして、触れるとともに彼女の血の源泉は渇き、癒しは起きたのです。
そのあとに、イエスは
「娘御よ、あなたの信(頼)が(今)あなたを救ったのだ。安らかに行きなさい。
そしてあなたの苦しみから(解かれて)行きなさい」
と言います。
ここでの<癒しの主体>は、
「長血という病を患っていた女性」であるように思えます。
しかし、荒井氏は
マルコ伝ではその傾向が強いのですが
マタイ伝・ルカ伝(マルコ伝・Q資料を元に書かれたという説が主流)においては
<キリスト教への信仰によって><イエスの力・言葉によって>その女は癒された、という
傾向の文章に変わっていくことを
引用・比較しつつ、指摘しておられます。
(荒井氏は、「・・・だからと言って私はマタイを非難しているわけではありません。
およそ信仰にはそういう側面もあるのです。
信仰は、社会問題や、あるいは人権に目を曇らせる場合が非常に多い。・・」とも、述べておられます。)
私はこの文章を読んで、心打たれたのです。
○○ヒーリングはすごい!○○セラピーはすごい!
なのかなあ?
ということ・・・
それを受けよう、と、その力により
変化を願い、行動する方こそがすごい!!のではないかと。
もちろん、施術側の主体もあります。
イエスが奇跡を起こしたのは、力があり、そのために生きたからだと思うのです。
癒しを準備する側の主体があり、
何より、癒されたいと願う方が、
「受ける。私は変化する」と決めたとたんに、
その方の中に方向性が生まれ、
癒しや変化が化学変化のように起こるのではないかと
感じるのです。
遠隔の施術前から、「あったかかった」「随分前の時間に眠くなって寝入ってしまった」
とおっしゃる方もおられます。
つまり、気持ちの向きがそちらに向いたときから、癒しは始まっているのだと思います。
(もちろん、セラピストとして最大の努力をしますし、
癒されなかったから
その方の願いが弱い、なんてこれっぽっちも思いませんが・・・。
ただ、変化が起きない、というとき、
ご本人が実は変化を望んでいなかった、ということは、あるかもしれません。
私は、癒されたい、人生を軽やかに確かに生きたい、と祈り願う方が
その時点で完全なる存在であり
癒しを変化を 内在しておられると思うのです。
冬からずっと書きたかった
私にとってとても大切なテーマです。
すべて書き切れた感じはしないのと、まとまっていませんが
ひとまず、目前の繁忙期に背中を押され(笑)
記しておきます。
