冬の津久井湖は水位が低い。湖面には空が映り、風はない。貸し出し用の小舟が数艘、湖畔に寄り添うように並んでいる。
 私たちは湖沿いを歩く。犬は明るいところを選んで進み、その影が木の階段に落ちる。水面、木々の影、遠い山々――幾重にも重なり、散歩のために用意された背景のようだ。
 城山公園の山道は、やがて上りに変わる。段々の階段は、きれいなところもあれば、落ち葉に覆われたところもある。足を置くたび、光がかすかにため息をつくのが聞こえるような気がした。
 木の幹が光を切り分け、斑に、葉の上や岩に、そして細かな残雪の上に落としていく。歩いているうちに、光はふいに密度を増し、木立のあいだから傾きながら、一つ静かな空間をつくり出した。

 私はその光の中に腰を下ろす。
 光は肩に、髪先に、衣の端に落ちる。ポーズをとる必要も、振り返る必要もない。光がすでに、輪郭を描いてくれている。
 少し離れたところで、夫がスマートフォンを構える。近づかず、その場に立ったまま、ゆっくりと撮っている。
 さらに歩くと、山のかたちが光を低く押さえた。

 山裾の一軒家の前で、私たちは足を止めた。
 小さな庭に、背の高い赤い実の木がある。近づいてみて、それが千両だと分かった。
 日本では、冬に深紅の実を結ぶこの木が好まれ、
 正月の生け花には、必ずといっていいほど添えられる。剪定を控えるほど、その実はかえって、のびやかに赤さを増すという。
 一本の木いっぱいに実った重たい赤が、新年の冬の陽射しの中で、静かに輝いている。
 これほど大きな千両金は、きっと二十年、三十年と、幾度もの正月の陽だまりを、黙って迎え送りしてきたのだろう。
 切り花でしか見たことのなかった小さな千両が、こうして生き生きと実をつけている。ただ並んで眺めているだけで、二〇二六年の喜びが、静かに胸に満ちてきた。

  「うちの千両金も、磊磊が大学に行くころには、こんなに大きくなるかな」

  磊磊は、私たちの大切な孫で、まだ四か月。つい最近、赤という色を覚えたばかりだ。

 城山公園には、もう一本、柿の木がある。
 枝いっぱいに実をつけながら、誰にも採られずに残っている。公園の人が教えてくれた。これは鳥のために残してあるのだという。日本語では「木守り」と呼ぶのだそうだ。
 熟した実を木に残し、必要とする命が訪れるのを待つ。
 なんて、やさしい考え方だろう。

 風が枝を揺らし、柿の実が小さく揺れて、また静まる。鳥はまだ来ない。きっと、金色の柿のあいだで、光がひと眠りしているのだ。

 湖畔でも、山道でも、私たちはスマートフォンを手に、欲張りな子どものように、山いっぱい湖いっぱいの光を追いかけた。
 湖面も、葉も、細かな雪も、ある一瞬まで明るさを増し、そのときだけの「光」が、今日の山歩きを貫いていく。
 温かな冬の陽射しとの縁は、どうやら今日にこそ、ふさわしかったらしい。
 けれど、やはり心は小さい。
 光影をたくさん写しても、うまく抱えきれず、つかまえることもできない。だからただ、静かに、光に身を委ねる。
 光のただなかで、人にできることは、立ち止まり、目を閉じ、心を整えることだけだ。
 光は寛容に、肩に、頬に、そこにいる一人ひとりの顔に落ちてくる。

 目を閉じると、腕の中に犬がいて、遠くに湖があり、背後に山、足もとに道があり、そして、そばには大事な人がいる。